ななこのArt interview  〜作家の小宇宙を訪ねる〜 (24)

河 合 誓 徳


『環境の中から美意識や倫理観を身に付けてきた。 それが尊いものであって自信を持つべきもの


 京焼、清水焼の長い歴史と風土の中で、数多くの名工を輩出してきた茶わん坂。そこで作陶を続けられている河合誓徳先生を訪ねた。  河合先生が作陶を始めたのは小学生の頃。「3年生くらいの時学校で古代史とか宝探しの話とかが流行っていて。そこで土で形作ったものを埋めて、発掘品に見せかけたら友達はびっくりするだろうと思い立って作ったのが最初。それからはふるいで土を均一にしてみたり、ごはんを保温するおひつの巻縄をヒントに紐状にしたものを積み重ねていく方法を知ったり、七輪で素焼きを覚えたりしていくうちに陶芸の基礎を全部自分でやっちゃったのです。」中学に入ると寄宿舎の裏に釜を自分で作り(それは伝説となっている)、ガラスを溶かして楽焼きと同じような釉薬も自作したという。その後河合先生はもちろん美術学校への進学を望んだが、当時は戦中、故郷には戦の神の宇佐神宮が近くにあり「国破れて何の芸術がある」と反対され、17歳で飛行予科練習生となった。一つ歯車が違っていたら命を落としていたかもしれない状況を何度も乗り越え、19歳の時終戦を迎えた。「戦後京都へ日本画を習いに行って3年目くらいの時、母危篤の電報で飛んで帰ったらそれは帰らせるための方便でした。結局家業の寺の仕事を1年やったんだけど、諦めきれなくて夜逃げして有田で色絵付をやるようになった。その後同じように電報が来てまたかと思っていたら、本当に母は亡くなっていて。わかったときはとても悔やんで、供養の為には立派な陶芸家になることだと奮起し京都へ修業に出ることを決心したのです。」






第28回日展 日本芸術院賞受賞作品「行雲」

  京都では先ず下絵の仕事に就くが、持ち前の負けず嫌いと自分なりの工夫を重ね、半年後には何十年ものベテランの仕事をこなすようになる。そこで本格的陶芸を指向し、清水六兵衛先生の主宰する陶芸家クラブの門を日展作家育成の為のクラブとは知らずに叩くのである。当然初めは門前払いの様相だったが、新鮮な創作意欲を感じてくれたのだろう、とにかく作品を一度作って持って来いということになった。その処女作が認められクラブ入会を果 たしたばかりか、その作品を日展にも出品するように言われ、見事入選を果たしたのである。日展初出品で周囲に鮮烈な印象を与えた河合先生は五条坂の名門、河合栄之助の婿養子に迎えられ、日展2回目と結婚した年の出品は落選するというジンクスをもろともせず入選し続けた。幼少からの類いまれな探求心から築かれた技術と深い精神性は、お手本の一切ない独自のもので、これが河合芸術の根底となっている。面 で釉裏紅を実現させたこともそのひとつであろう。こうした「独自性を追及する精神」は陶筥へと導かれ、昭和37年特選・北斗賞、平成元年内閣総理大臣賞、9年日本芸術院賞、17年には日本芸術院会員に就任されたのである。

 現在80歳。今も日本の風景をモチーフとした陶筥を多く制作され、海外からも高く評価されている。その風景とは自身を育んでくれた故郷大分の景であり、郷愁の思いを「空間余白」にのせるという人が想う風景の原点が描かれている。「民族はずっと何千年もその環境の中で育ってその環境の中から美意識や倫理観を身に付けてきた。それが尊いものであって自信を持つべきもの。だから私は日本の風景を描きたいんです。そしてただベニヤ板でつくられた家の中で、大量 生産されたものに囲まれて生活するのではなく、やっぱり手作りの、ぬくもりのある生活を造形していきたいと思っています。」河合先生の陶芸一筋に生きてきた人生に感動した取材であった。




第5回新日展 特選・北斗賞「蒼」