〜追悼〜  会長 直原 玉青

 (社)日本南画院会長の直原玉青先生が昨年九月三十日逝去された。百一歳で亡くなるその年の第45回記念展まで日本南画院展に出品をされ、正に生涯現役を貫かれた。
 私が、直原先生に初めてお目にかかったのは、昭和六十一年の二月初旬であった。岡山の尾関文穂氏より全日本美術新聞社を引き継ぎ、その年の三月号より私が発行することになり、いわば神戸移転の第一号の巻頭カラーを直原先生にお願いにあがったのだが、その年はちょうど玉青画業六十周年記念にあたり、青玲社展に出品するために「シルクロード・駱駝群」を描き上げていた。その作品が私の初発刊号の巻頭カラーを飾ったのである。一度も面識が無く、素人同然の三十四歳の私の願いを聞き入れてくれた感激は今も忘れない。先生は「この仕事はそんなに楽なことではないよ!一生懸命勉強しなさい」と、じっと目を見ながら語られた。若いころから俳句にも通じ、「ほととぎす」の同人であった直原先生、丁度その年は直原先生が郷里淡路島で倒壊寸前であった黄檗宗国清禅寺の復興を果たさんとしていた時期で、句画禅一致の境地への入り口を入られた頃であったと思える。
 それ以来、先生が亡くなる年までいろいろな意味でお世話になってきた。これまでもアトリエで製作中を拝見させていただいたこともあるが、一番驚いたのは、即興で描ききる実力を目の前で体験したことである。黄檗の塔頭瑞光院の襖絵を描くからということで同行させていただいた。資料を見返すと平成二年の九月十九日とある。下描きも全く無く、いきなり墨で描き始めた。頭の中にしっかりと構図が確立されているのだろう、八枚の襖に唐獅子と牡丹。朝十時に描き始め、完成したのが午後四時を少し過ぎた頃。昼食時間を除くと四時間余りで描き上げたことになる。とても八十六歳の手際に見えない集中力がひしひしと伝わってきた。現在の水墨画界にこれほどの画家は何人いるだろうかと思ったことを覚えている。「惜しみなく 絵描き残さん 秋来る」はこの時に詠まれた俳句である。その翌年の八月一日、淡路島の国清禅寺横に三原郡西淡町立の滝川記念美術館「玉青館」がオープンする。夏の暑い中、開幕式に参加した記憶がよみがえる。白寿展のお祝いもまた感慨深い。毎年の南画院展、現代南画協会展の祝賀会の席で直原先生とお会いして話が出来るだけで勇気・元気を貰ったような充実感を体験しているのは私だけではあるまい。
 直原先生は南画の根本は禅の心にあり、それこそが東洋の精神であると考え、南画を通して東洋の精神の復活に尽力してきた。その精神を受け継いでいくのが我々残された者の責任ではないだろうか。今展に飾られた遺作を紹介し、心より感謝と哀悼の誠を捧げたい。         (松原)

     第46回日本南画院展より

  
  〔遺作〕 「淡路島 慶野松原」