歴史の中の「書」1
西川 寧 『倉琅先生詩』  田宮文平


倉琅先生詩 1949年 日展出品 東京国立博物館蔵 

 パブロ・ピカソの『アヴィニョンの娘たち』が、キュビズム誕生の契機となったとは、近代美術史の明らかにするところである。しかし、ピカソがモンマルトルの通 称洗濯船のアトリエで、バルセロナの場末の街で春を売る娘たちを描いたときには、まさかこの絵が、そのような問題作になるとは考えもしないことであった。  

 西川寧が、『倉琅先生詩』を発表したのは、昭和24年(1949)の日展であった。その前年の昭和23年(1948)は、日展に第五科書が設けられた最初の年であったが、ここに西川寧は『白樂天詩』、そして昭和25年(1950)には『釟定厘詩』と、都合三年にわたって北魏風のあらあらしい楷書作を発表して何かと話題になった。これがわが国碑学派(金石書派)の書の先駆けとなると書者自身が考えていたかどうかまでは分からない。  

  この初期日展に発表した楷書三作について、西川寧は「最初は白詩によって、専らリリシズムを求め、その次の年『倉琅先生詩』は、好きなブラマンクの青の印象と称して、からだごと筆に投入しようとし、その次『釟定厘詩』は古い石垣の崩れそうで崩れぬ おもしろさが眼に浮ぶ中で、出来る限りロマンティックなものを排斥しようと試みた。」と述べている。おそらく碑学派(金石書派)云々などということではなく、第二次大戦後の開放的ではあるが、一方で鬱屈した精神状況に対する書者なりの表現であったにちがいない。  

  当時までの楷書の概念と言えば、楷書の極則とまでいわれた歐陽詢の九成宮醴泉銘のような整斉なものが支配的であった。そこへ起筆でも下から突っ掛けたような奔放な楷書が出現したのだから騒然となったとしても当然であろう。それでもまだ、「西川寧は学者だから」と幾分は無視もされたのである。  

  中国では唐以降、明に至るまで王羲之系を主体とする帖学が支配した。特に異民族出身の王朝にとっては、東晋の貴族たちの洗錬された書は憧れであったにちがいない。それが科挙制度とともに規範の文字とされ、歴代法帖に刻まれて伝えられたのが帖学系の書である。写 真や印刷術のない時代には、それが唯一の方法であったのだが、王羲之の眞蹟にしても唐太宗が昭陵に蘭亭叙を陪葬して以来、眞蹟は地上に無く、あとは搨 に搨 を重ねてきたのが歴代の法帖である。いわばコピーであるから真実の姿が次第に見失われたと言われても仕方がない。  

  これらに対する批判として興ったのが、清朝の碑学(金石書)である。清朝の学風は考証主義、実証主義であったから、書学においてもその傾向が強まり、阮元の北碑南帖論が発表されるに及んで、確立するのである。コピーの法帖よりも、金石に刻された文字のほうが、たとえ肉筆でなくとも原形をたしかに伝えているという考え方で、秦漢魏は北方を中心とする王朝であったから「北碑」と呼ばれたのである。  この碑学派(金石書派)の書思想をわが国に体系的に伝え、書学を方法論化したのが、西川寧その人であった。これを援護するかのように、二〇世紀一〇〇年の間には甲骨文、金文、陶文、木簡残紙などの古代文字がぞくぞくと発掘発見され、実証的な書学が盛行するのである。これらの古代文字をみずからの書作に採り入れた人として 石如、阮元、包世臣、趙之謙、呉大澂などの人びとが出現する。なかで西川寧が、もっとも傾倒したのが趙之謙である。  

  「趙之謙は昭和八年から十三年までが一番熱の上がった時代である。」「はじめは趙の痛快なほどの筆の切れ味と伸びに感心したらしい。そのごくはじめは、波磔は利謙のように長く切り放し、横画はすいと引いて肩をあげっ放しにした。」「そのうち趙の魅力は筆の伸びとばかり思っていた目に、同じ筆のちぢみの激しさが大きく立ちはだかって来た。こんなことではならぬ 、もう一度やり直して一点一画ことごとく趙そっくりにしてやろう、一歩でも趙に近づけばこんな喜びはないなどと考える。」そして、遂には趙氏の奴隷になってしまいたいと「趙家之狗」という遊印まで刻そうとするのである。  
  それが、やがて本稿の楷書作に至るわけだが、それはまた、西川寧にとって自我克服の近代の精神状況でもあったにちがいない。


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