歴史の中の「書」3
手島右卿 『崩 壊』  田宮文平


崩 壊 (独立書展)1957年 

 1957年(昭和32年)の第四回サンパウロ・ビエンナーレは、抽象表現主義が世界の美術を席捲する熱狂のうちに開かれた。ここに日本の美術の代表として送られたのが、手島右卿の『崩壊』や、井上有一の『愚徹』等の書であった。  

 サンパウロ・ビエンナーレのキュレーターをつとめたのが、ブラジルのペトローザ博士で、当時、京橋にあった東京国立近代美術館に席を置きながら日本の現代美術を視察し、検証したのである。書の方面 は専ら比田井南谷が案内役を買って出て、覚えたての英語を頼りに打合わせをしているところへ、わたしも同席したことがある。まさに「書と絵画との熱き時代」(O美術館企画展の名称)で、書壇でもアクション・ペインティングとか、アンフォルメルなどということばが飛び交った。  

 ペトローザ博士が、東京国立近代美術館を根拠地とすることができたのは当時、 館次長が今泉篤男氏、 美術課長が河北倫明氏で、お二人とも書をはじめとする東洋美術への素養が深く、抽象表現主義と連携するように、「日本の建築と書展」(ニューヨーク近代美術館、1953年)、「日本現代書道展」(ニューヨーク近代美術館、1954年)、「現代日本の書・墨の芸術展」(アムステルダム市立美術館、1955年)等の企画に関与していたからである。また現代日本の書の状況を世界に向けて発信するのに森田子龍編集の『墨美』が大きな役割を担った。  

 当時、墨象とも前衛書とも称された一連の抽象書は、よく抽象表現主義の影響のもとに生まれたと誤解されるが、これはわが国近代化のなかで、すでに戦前から胚胎していたものである。その書や禅画のストローク性に注目したのが、占領軍将兵のうちの美術に関心のある人で、これが帰国後、抽象表現主義の運動に点火したとも言えるのである。いわば文学におけるドナルド・キーン氏や、サイデンスティッカー氏と同様の役割を果 したのである。  さて、ペトローザ博士は、日本の現代美術を悉に検証した結果 、手島右 と井上有一の書家二人を選び、出品を依頼したのであった。  

  手島右卿は、この『崩壊』のほか、『通』、『山』の計三作を出品したが、特に話題となったのが『崩壊』であった。のちにこの作はペトローザ博士が手島右 邸を訪ねた際、「何か崩れゆくものを表現しているのか」と言って右 を驚かせた。漢字の意味の分からない人がそのように感じたことで、手島右 は改めて書の世界性を確信するに至るのである。  この書の発想について書者は、「終戦間近の空襲のさ中、爆弾が落ちるのをみて、もののくずれてゆく、あのすさまじい迫力を、書に拠って表現できないものかと考えた。すさまじい破壊力、無残にくずれ落ちるコンクリートの建て物―言葉では言い表わすことのできない凄絶さに、私はくずれゆくものの美を感じたのだった。」(『書道講座』3、「草書」、二玄社、1971年刊)と語っている。以来、10年余にわたって篆書、隷書、楷書等の各書体による試行錯誤を経て、サンパウロ・ビエンナーレへの制作依頼を機に漸く草書体に定着したのであった。  

 第4回サンパウロ・ビエンナーレへの書の出品によって、書は世界の美術の中へ確固たる位 置を占め、1958年(昭和33年)のブリュッセル万国博の「近代美術の50年」には富岡鐡齋、梅原龍三郎とともに、またも手島右卿と井上有一が招待されるのである。  

 こうした熱狂の中で手島右 は墨象作家などと囃されるが、書者自身はそれを明確に否定、東京国立近代美術館の『現代の眼』で、新古典派の書人であることをはっきりと主張した。それは、その後の手島右卿の軌跡を見れば明らかであろう。『崩壊』は、それを証明する記念碑的作品である。


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