歴史の中の「書」4
三枝茂雄 『龍門造像銘一弗』  田宮文平


洛陽龍門造像銘  一弗   1978年 

 三枝茂雄は、第二次大戦後の美術では、国画会の画人として位置づけられている。昭和25年(1950)に梅原龍三郎の『パリスの審判』に触発されて日本画から洋画(油彩 )に転じ、国画会に『夜話』、『世界』を初出品し受賞、平成1年(1989)に没するまで国画会に所属し、出品しつづけた。しかし、これは三枝茂雄の一面 にしかすぎないのではないだろうか。  

  幼少四歳にして書を学び、中国文化の素養の深かった三枝茂雄は、書画一体の水墨着彩 画に独自の世界を切り拓き、わたしなどは現代版の富岡鐵齋と言ってもよいとおもっている。没後、刻々と評価の高まっているのは、その面 ではないだろうか。  四歳にして書を習いはじめたことは既に述べたが、13、4歳で地元出身の飯田蛇笏の『雲母』に投句、文学、歴史、仏教関係の哲学書、漢籍に親しんだ。一五歳のときには乾徳山恵林寺の寳嶽棲老師の導きで参禅修業に励んだ。16歳にして『美術全集』(平凡社刊)に出会って絵画に本格的に目覚め、東京美術学校(現東京藝術大学)日本画科に首席で入学する。  

  しかし、当時、美校日本画の主任教授は結城素明であったというが、三枝茂雄はこれに満足することができなかった。下図を描いて色を塗っていくという輪郭線を排除した朦朧体の伝統に、線表現を基調とする作画を根幹に据える三枝茂雄は反発した。そして、これを「胡粉細工の塗り絵」とまで酷評している。現在の厚塗りで、ともすれば日本画の本質を見失いがちの状況を早くに予見していたとも言える。  かくして三枝茂雄は授業には出ず、専ら図書館(文庫)や隣りの帝室博物館(現東京国立博物館)に通 って、漢代の画像石や、金農や石濤等の模写につとめた。卒業制作の『青山白雲』は戦災で失われたが石濤を彷彿するものであったらしい。卒業に際しては、図書館に向かって額ずいて去ったという。  昭和18年(1943)に美校を卒業すると、中華民国南京日本中学校に美術担当として赴任した。三枝にとって、まさに水を得た魚の気持であったのではないだろうか。早速、揚州、鎮江、蘇州等を巡るのである。ここに採り上げる龍門石窟の造像や、造像銘に対する関心も、こうした過程を通 じて高まったものとおもわれる。  

  夫人の三枝静代さんによると画伯の日常は朝、書を臨書することからはじまったという。中国伝統の美意識の根幹に「詩書画」の存在することへの深いおもいがあってのことであろう。  三枝茂雄の水墨着彩画には、賛というよりは、書画一体というほど多字が書き込まれたものが少なくない。その点でも富岡鐵齋と共通 するものがある。  

  なかで、一連の龍門石窟に因む作には造像と、造像銘が一体となって書きこまれている。書家は、龍門20品などを盛んに書くけれども造像銘の拓しかもっておらず、そのうえの造像の知識を有しない人も少なくない。この点については、いつか仏教学者から書家は龍門の本質を理解していないのではないかと言われたことさえある。  

  ここに掲出する三枝茂雄の龍門一弗造像並に銘は、古陽洞北壁にある。張元祖の妻である一弗(いちふつ)が、亡き夫のために釈迦像一体を据えて、銘を刻したものである。  三枝茂雄の『洛陽龍門造像一弗』は、絵画化されてはいるが、ほぼ原刻に忠実に中央に釈迦像を描き、その下に造像銘を書いたものである。原書は石刻であるわけだが、その書のイメージを原石の文字の布置の通 りに巧みに再現している。実にその書のタッチが、清澄の響きをもっているのは、書者三枝茂雄のこの書に対する〈目〉のしからしむるところであろう。  

  画中に「龍門二十品中、第一可憐碑」と三枝は記している。そして、釈迦像の両サイドに「畫棺槨」、「酒墳墓」の印が押してあるが、前者は三枝自身が命名したアトリエの別 称で、後者は書人・桑原翠 が三枝からその揮毫を頼まれたときに、余程、酒好きらしいからと対にして書いて贈ったものである。  三枝茂雄の書と画は、そのいずれもが単なる技術ではなく、歴史と文化の素養に深く裏づけられていることを教えてくれるのである。


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