歴史の中の「書」5
青木香流 『 鎮魂の曲 』  田宮文平


 

鎮魂の曲   毎日書道展   昭和59年(1984)

 書壇は、第二次大戦中に大日本書道報国会に統合されるなど戦時体制に組みこまれていくが、画壇のように戦後、その責任が問われることもなく、また、「戦争画」を巡るような論争などもなかった。  
 
  書は、文字のかたちとことばの意味を同時に伝える世界でも稀有の芸術であるから、時代の状況を表現した作品が存在しないというのは一見、不思議である。しかし、極く少数ではあるが、あの悲惨な戦時中の状況を書いた「書」は存在するのである。しかし、そのような観点から意識され、評価されることが従来、かならずしもなかった。  
 
  青木香流『鎮魂の曲』は、自身が酷薄の体験をした第二次大戦末期のフィリッピン、マニラ山岳地帯での日本軍の惨状を自作の詩文で書に表わした戦友へのレクイエムである。「青木の白」と言われるほど、この人は『ゆき(草野心平詩)』『つばめの宙がへり』にしても、純白の空間を広々と清冽に生かしたものが多いが、この『鎮魂の曲』は、それとは対蹠的にアメリカ軍の猛烈な空爆と砲撃に襲われ、部隊が全滅状態に陥る状況をイメージしているかのように見える。青木自身、顳藕(こめかみ)に瀕死の重傷を負い、気がついたときにはアメリカ軍の病院へ収容されて奇跡的に一命をとりとめるのである。

俺ハナンドモ死ナズニスギタ  
キサマノ屍ヲヒキズッテ  
谷間ノ草ニ埋メタトキ  
俺モ頭ヲヤラレテタ  
ソレデモ死ナズニ生キテキタ
トキオリ傷痕疼ク夜ハ  
アノ脳味噌ノフキダシタ  
ユガンダ顔ガ浮ビダス  
アレカラスデニ四十年  
ドウニカコウニカ生キテキタ  
修羅ノコノ世ヲ生キテイル

 青木香流は、昭和60年(1985)4月9日、肋間と胃部の激痛に耐えかねて入院する。そのベッドのうえで死の予感のなかで書かれた最後の文が、『いわせてください』である。「いまわしい戦争の追憶は忘れたい。そう思う気持はこの四十年の間、心の片隅にこびりついて離れたことはない。それなのに忘れ去ることが出来ぬ のである。『裸足』、『小さい足あと』、『わらべうたの書』といったエッセイ集や詩集、さらに何点かの私の書作品には、いずれも戦争の硝煙がくすぶっている。左額の戦傷は相変らず古い傷痕の証拠として癒えてはくれない。季節の変りめには戦争を想い出させるために痛みだす」と記している。青木香流は、日本ペンクラブ会員でもあった。  

  戦地から復員した青木香流は、「書」によって自己の人間表現をしたいと考えるようになる。そのためにも不世出の天才といわれた手島右 に就いて漢魏晋唐、わが国の三筆三蹟等の古典を窮めなければならなかった。当時、印象派の光の概念を書線のなかに導入した手島右 の古典の臨学体系は傑出していたのである。みずからの生き様を表現するためにも、青木香流は、この臨書の厳しい鍛錬を課したのである。それは書作のためであると同時に、自己表現の手段でもあった。それが、のちに体制指向の書壇に次第に違和感を抱く要因ともなる。  

  昭和47年(1972)の独立書展に青木香流は、『ゆき(草野心平詩)』を発表し、絶賛を博する。同じ年の毎日書道展には『つばめの宙がへり』、その翌年の毎日展にも『めだかのがっこう』を発表し、「青木の白」は不動のキャッチ・フレーズともなった。それは、青木の清冽な心象と右 師伝授の書線とが、みごとな相乗効果 をもたらしたものであった。  かくして青木香流の書人としての地位は確立し、青年書人の憧憬の的ともなったが、それらに満足することは決してなかったようである。  

  昭和51年(1976)の壮大な壁書展には、タテ二10×ヨコ770センチの『春光五百羅漢』の超大作を発表する。フィリッピンの戦地で散華した戦友の霊を葬うために500字の「佛」字を書いたのであるが、見方によって苔むした頭蓋骨が一面 に描かれたようにも感じられる。このあとに制作されるのが、冒頭に取りあげた『鎮魂の曲』であった。青木香流にとって、「書」はまさに忘れがたい生き方のかたち、そのものであったのである。


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