歴史の中の「書」7
平櫛田中 『いまやらねば』  田宮文平

 

 

           
 

『いまやらねば』  額(35×135cm)  小平市平櫛田中館寄託

 近代の彫刻家には能筆の人が少なくない。平櫛田中、北村西望、澤田政廣、高村光太郎等々である。特に木彫系の人に筆の立つ人が多いのは、粘土で原型をつくる塑造系と異なって、一度彫り損じると復元できないという点で、一回性の顕著な書と似ているためかもしれない。そういう点では、板画の棟方志功も書に秀でているのが分るような気がする。  

  平櫛田中の書は、若き時代に西山禾山師に就いて参禅したことからも頷けるように『忍』、『圓通 』、『守拙求真』、『天上月一輪』のような禅語系が多いのであるが、一般には ″田中語録″とも言われる「六十七十はなたれこぞう/おとこざかりは百から百から」、「いまやらねばいつできる/わしがやらねばたれがやる」等が特に親しまれている。「六十七十…」などは、いまや、還暦や古稀の祝いの席での挨拶の定番とさえなっている。  平櫛田中と言えば、その生涯の業績をよく知らない人でも、国立劇場のロビーに飾られている巨大な『鏡獅子』(実は東京国立近代美術館の蔵品)には馴染みがあるであろう。この像に着手した昭和13年(1983)には、六代目(尾上菊五郎)の舞台に25日間も通 い、あらゆる角度から観察したという。そして遂には豪華絢爛たる衣装におおわれた内側の肉体の動きまでを見るために楽屋にまで参じたのである。そして、幾多の試作を経て、20年余の歳月の後に漸く完成に至ったのである。  平櫛田中の書には、そのような鋭い執念の∧目∨と、107歳まで長寿を保った稀有の生命力が宿っていると言えるのである。  

  平櫛田中が、本格的に書に打ちこむようになるのは、80歳を過ぎたころからという。しかし、毛筆がほとんど唯一の筆記具であった時代に素養として書が身についていたことは疑いを入れない。ある意味で教養階級にとっては「書は万人のものであった」のである。令孫の平櫛弘子さんの話によれば、旅行中はかならず矢立を携帯し、筆まめにその土地土地の様子を知らせてきたという。また、耳が不自由になってからは電話が使えないので、毎日のように手紙を書いて連絡したともいう。書の歴史の名筆の多くが、王羲之や空海に象徴されるように尺牘であることがおのずと想起されることである。  

  ところで、『いまやらねば』の書は、全文が平がなであるが、もとはと言えば、同じ彫刻家の辻晉堂が、アンドレ・ジイドの名作『雁金づくり』から「今やらねばいつできる。俺がしなければ誰がする」のことばを採って座右の銘として壁に貼っておいたものだという。平櫛田中は、何かの機会にこれを見て、反復しながら『鏡獅子』等の仕事に取り組んでいたのであろう。そして、それが書として好んで書かれるようになったのは、それから二〇数年後のことであった。  

  平櫛田中にとって、それが、アンドレ・ジイドの『雁金づくり』が出典であることなど、おそらく記憶になかったのではないだろうか。毎日のように仕事に取り組みながら唱えるうち、それは平櫛田中の身心に滲みこみ、みずからの肉声をもったことばと化していたにちがいない。書が文字のかたちと、ことばの意味を同時に伝える稀有の芸術であることの存在理由が、実はそこにあるとも言えるのである。  

  「いまやらねばいつできる、わしがやらねばたれがやる」ということばも、毛筆による書としての文字も、平櫛田中という一人の人間の表現と化していると言うことができる。  平櫛田中の遺愛の品を見ると、文房四宝に格段に凝っていたようには見えないが、さすがに墨には方于魯製の「百鵲圖」などがあり、硯も之河緑石の蘭亭硯など、みな一級品である。特に注目するのは筆で、山馬筆や竹筆のような硬めの筆を愛用したようである。純羊毛筆のような柔らかい筆でないのは、やはり、刀を握る木彫の人としての感覚から胚胎するものなのであろうか。  「六十七十はなたれこぞう…」を書いたもののなかには、中央に「不老」と書いたものがある。107歳長寿の生命力であろう。東京、小平市蔵のものには、「九十九倬太郎書之」と落款にある。印には「平櫛田中」というのもあるが、署名では滅多に「田中書」としなかったのは、あるいは、彫刻とは別 の仕事と考えていたのかもしれない。因みに「平櫛田中」という名前は、若い時代に平櫛家、田中家に養子に行ったことから合成してつくったものである。


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