歴史の中の「書」8
日比野五鳳 『ひよこ』  田宮文平

 

 

           
 

ひよこ(島木赤彦歌)  17×16.7cm 1968年   

  おやどりのつばさのひまゆぬけいづる 第11回新日展出品   
これのひよこはたはむるらしき    東京国立博物館蔵

  昭和43年(1967)の日展に発表された日比野五鳳の『ひよこ』(東京国立博物館蔵)は、書者自身の生涯の軌跡においても、近代のかな史においても、歴史的な転換点となった書である。  

  日比野五鳳の代表作の多くは日展、現代書道二十人展(朝日新聞社主催)、そして自ら主宰した水穂会展に発表されているが、それらのなかで、この『ひよこ』には唯一、落款(作者名)がない。それは、かの鈴木翠軒が「このような書は、あなただけしか書けないのだから落款はいらないのではないか」との助言に従ったからである。雅印の様式は中国伝来の漢字書のもので、かな書には本来ないものである。翠軒は、この『ひよこ』を古筆と同様の観点で評価したのではないだろうか。日比野五鳳の書が、″平安朝の再来″などと言われるようになったのも頷けることである。  
 
  日比野五鳳は、昭和23年(1948)に日展に書分科が開設されると一躍して彗星のように現われた。そもそもは大野百錬に学んだ漢字書系の人であったが、日展の書の開設を機に教職を擲って書の専家として立つことを決意し、それならばやはり日本の書独自の「かな」に懸けようと考えたのである。岐阜県神戸町から若くして王城千年の京都に出てきたことが、そのような意識を養ったにちがいない。  
 
  日展には、昭和23年(1948)に『枕草子一節』、翌年には『伏見院御集』、そして昭和25年(1950)には『万葉二十五首』を出品した。当時まだ無名に近い日比野五鳳のこれらの書を、いち早く評価したのが、近代かなの方法論を確立し、豊道春海とともに日展常務理事として権勢を誇った尾上柴舟であった。まさに、よき伯楽に出会ったというべきであろう。そして、昭和26年(1951)には『浦島の歌』で遂に特選となり、「京都に日比野五鳳あり」と謳われるようになったのである。  日比野五鳳の古筆遍歴は、要約すれば継色紙から寸松庵色紙へと展開する。前者の「枯淡」に対して後者の「優美」は、生涯の思索を貫く内面 的なテーマであった。もちろん、そのバックグラウンドには、長い間の漢字の学書が存在した。  
 
  『ひよこ』に至るまでの書の素材の多くは、万葉集や平安期の和歌や物語の類である。ところが、『ひよこ』は一転して島木赤彦の「おやどりのつばさのひまゆぬ けいづるこれのひよこはたはむるらしき」の短歌であった。王城千年の土地で、古筆による技術と感性を養いながらも、いまに生きる人間としての表現を指向すれば、おのずと素材も現代のものにならざるを得ない。書が、文字のかたちと、ことばの意味を同時に伝える稀有の芸術であるとすれば、それは極めて自然のことであろう。その後も世界に冠たる万葉歌や、平安朝の歌を書かないことはないが、一方で『大原女』の高浜虚子句、『こころよき疲れ』の石川啄木歌、『赤とんぼ』の三木露風詩、『荒城の月』の土井晩翠詩等々へと変貌を遂げるのである。さらには晩年には『モモ栗』、『流水』、『共にさくよろこび』のような古語や俚諺などもどんどん書くようになる。そして、素材とともに書風も刻々と変わるのである。その、いわば分水嶺に位 置するのが名作『ひよこ』である。  
 
  何よりも思索の書人であった日比野五鳳について、いまや、伝説的に語られるのが、日々の “鴨川散歩”である。それを日比野五鳳の文から要約して引用する。「今日も近くの鴨川へ散歩に出かけた。ぼんやりと子供の遊ぶさまを見ていると、何ともうれしくなる。私はふと、自分の書の制作について考えた。意欲がなかったら進歩はないのであるが、意欲が出すぎた作品は見るにたえられない。無理をすることは真実から遠ざかることだ。知性と感情の結びつけが重大事である。去り際に、何気なく河原の小石を一つ拾ってぽんと川へ投げこんだ。自分でも何の理由で投げたかわからない。」  文の省略は、あくまで筆者(田宮)の責任であるが、小石によって水の流れは一瞬、途絶える。しかし、また、何事も無かったように水は流れている。五鳳翁はそこに何を見ようとしたのであろうか。かな書の連綿と放ちの関係は、まことに微妙である。放れているようで繋がっている。それはまた、書人の実存そのものに深くかかわることではないだろうか。

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