歴史の中の「書」10
川村驥山 『一二三四五六七』  田宮文平

 

 

                 
 

一二三四五六七 1967年 現代書道二十人展出品 驥山館蔵 

  

  川村驥山の生涯の代表作をあげるとすれば、書(壇)で最初の日本芸術院賞となった『醉古堂剣掃語』の楷書六曲屏風と、驥山の書名を一躍高からしめた『飲中八仙歌』の狂草六曲屏風とであろう。この楷書の構築と狂草の躍動の二つの焦点をもつ楕円軌道が、川村驥山の書の世界とも言えるからである。  

  しかし、その一方でちょっと視点を変えてみると、驥山翁の書の出発点となった『大丈夫』の「五才、慎一郎書」と、今回図版に採り上げる最晩年の『一二三四五六七』(現代書道二十人展 一九六七年)の間に生涯の書作が存在すると言ってもよい。  

  川村驥山(本名慎一郎)は、女子が四人のあと、五番目にはじめての男の子として生まれた。それだけに厳父東江の喜びようは格別 で「お薬師さんの申し子」と言ったという。それで数え四歳のときに孝経と論語の素読をはじめ、同時に書を教えたのである。驥山翁の楷書の骨格は、王羲之に先ずる鍾孅にあるが、五才の書『大丈夫』にすでにその面 影が宿っている。昭和三七年(一九六二)の驥山館(長野市篠ノ井)開館の折に一点一点、驥山翁が列品を解説してくださったが、この『大丈夫』については、「いまもこう書くねえ。雀百まで踊りを忘れずだねえ」と仰った。  

  川村驥山は静岡県の出身であるが、こうした神童振りは県下に喧伝されていたらしく、時の小松原英太郎知事の御声掛かりで県下の小学校を隈無く模範揮毫をして歩くことになった。そんなことのできたのも、尋常小学校の四年間を二年で卒業する学力があったからであろう。そして、明治二七年(一八九四)の数え一三歳のときには、明治天皇の銀婚式典に際して孝経と出師表を暗書して天覧の栄を賜り、一躍全国的な話題ともなった。  このように川村驥山は、若年から天才振りを発揮するが、後年、二女の靄子に「俺のことを神童だの天才だのというけれど、俺はぶきっちょで何も出来ない。天才だの神童だのと云われたばかりに、その名を保持し汚さないようにと、青年時代になっても、より以上の勉強をしなければならなかった。」(佐藤靄子著『父 川村驥山』、青蛙房刊、一九七五年)と語っている。見えないところで努力の人でもあったのである。  

  川村驥山は、こうしてみずからを誡めるためか、青年時代から全国へ修業の旅に出ている。この間、江馬天江、富岡鐵齋、橋本関雪等の文人画人をはじめ、政財界の著名人との出会いも数限りない。また、長崎の皓台寺では霖玉 仙禅師に就いて五年間の禅修業にも励んでいる。  川村驥山は、もともと酒はあまり嗜まなかったが、やはり血筋か、次第に本領を発揮するようになり、その飄々とした立ち居振る舞いとともに酒仙とも醉仏(醉ったらほっとけのシャレ)とも称されるようになった。驥山館隣りの料亭与嘉楼は常席で、とことん醉んで醉んで無心のうちに書くとも言われた。かくして、『醉裏全天真』などの数多の傑作が生まれたのである。  

 その伝説の抑の発端は、狂草『飲中八仙歌』の六曲屏風であるが、この書が一躍話題になると、飲中八仙歌の揮毫の依頼が殺到したようである。それで没後、長野東急百貨店で遺作展が開かれると、飲中八仙歌屏風が多数出陳されたのには喫驚した。これらのなかに「醉裏」に対し、「醒時」とわざわざ落款に記されたものがあった。そこにはまた、「醉醒亦一如」ともあった。驥山翁の替え歌に「酒はもとよりきらいじゃないが書けぬ つらさでやけでのむ」というのがあるが、天才をしてなお、書はそのように深遠なものなのであろう。一回性の書にごまかしは利かないのである。  
 
  驥山翁にとっては、酒もまた、禅の修業に通ずるものがあったのかもしれない。杖につけた瓢箪には常に酒がつまっており、それを突きながら飄々と行脚する姿は、まさに酒仙とも醉仏とも称されることにふさわしいものであった。そして、森田子龍編集の『墨美』誌が、書と酒をテーマに川村驥山論を特集するまでになった。  

  驥山翁の最晩年の書『一二三四五六七』が、良寛の和歌のイメージによることは言うまでもないであろう。書法としては、他の人のように良寛さんに、かならずしも近づかなかった人であるが、すべての拘りを捨てた境地は、まさに両者共通 のものであったにちがいない。


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