歴史の中の「書」12
須田剋太 『 華 厳 』  田宮文平

 

 

          
 

華 厳 1989(平成元)年

  

 須田剋太画伯は、絵でも人柄でも実にユニークな存在であったが、「書」においても独自の主張があった。そもそも須田剋太が書の美に覚醒するのは、昭和20年代に吉原治良に誘われて南天棒の書を見てかららしい。油絵のように時間をかけて積みあげていく作業に対して、一瞬のうちに心情を吐露できる「書」というものは、実に魅力的であったにちがいない。  

 その須田画伯の画業が一般に広く人気を博するのは、司馬遼太郎と組んで昭和46年(1971)から『週刊朝日』に連載のはじまった「街道をゆく」の挿絵からではないだろうか。それはまさに書的発想の画とも言えるもので、画伯の「書」に対する主張とも軌を一にするようにおもわれる。  須田剋太は、埼玉吹上の出身であるが、東京美術学校の受験に四回も失敗したこの人の画才をいち早く認めたのは、同じ埼玉 の寺内萬治郎であった。その引きで光風会にも入り、昭和14年(1939)、三三歳のとき『読書する男』が、新文展で特選となる。さらに昭和22年(1947)には、令室をモデルに描いた『ピンクのターバン』が、第三回日展で特選となった。これは絵肌の実に美しいロマンあふれる絵で、生涯の代表作の一つとなったのである。  しかし、昭和16年(1941)に、かねて憧れの関西の地に移ったあたりから徐々に須田剋太の発想は変わりつつあったようである。東大寺観音院住職の上司海雲に出会ったことも、その一つの契機とも言われる。  

 須田剋太は、昭和22年(1947)、西宮市立芦原小学校で一介の教師となる。これは、のちに意気投合する書家の井上有一の経歴とも似ていて興味深い。″狼屋敷″などといわれた井上の書室に因んで『一狼軒』の書をものしているほどである。  須田剋太は、小学校の教師をつとめながら、そのころ京都大学教授の井島勉らによる転石会の定例研究会に出席して、ここで長谷川三郎に邂逅する。井島は、岩波文庫版のヴォリンガー『抽象と感情移入』の訳者として知られ、戦後の書の理論的根拠にも大きな貢献をした。長谷川三郎は、森田子龍編集の『墨美』創刊号にイサム・ノグチを介してフランツ・クラインの抽象画のプリントを提供し、書が抽象表現主義と連動する多大の契機をつくった。  

 かくするうち、昭和27年(1952)、吉原治良、津高和一、須田剋太、森田子龍らによって現代美術懇談会(ゲンビ)が結成され、須田の画風も具象から抽象へと一大転換する。日展、光風会も退会するのである。  ゲンビには、森田子龍、井上有一、江口草玄らの墨人会系の書家も参加し、″書と絵画の熱き時代″がはじまるのである。  抽象に転じた須田剋太は、いよいよ書にのめりこみ、森田子龍編集の『書の美』誌に「原始の書」、「続原始の書」の書論まで発表するようになる。  

 書は、まさにシュールやアブストラクトや子供の絵の線と同一である。其の線其のものから、(造型性から)引きづり込まされる。美の本道を通 る所に、私は今後の書道の出発を期待する。其れには余程の近代絵画以来の、新しい造型理論を身につけた人でない限り、其の仕事は出来ないと思ふ。書ではないのだ。もう一つの絵なのである。一つの彫刻なのだ。あの古代の金文字の何と一つ一つが素晴らしく、構成されたモダーンな彫刻である事よ。其処で私は今までのやうに書を書く場合、すぐ、和紙に毛筆で書くと云ふ此の方法に反対したい。書が一つの造型である以上、何千年来、伝統された、墨と、毛筆と紙を否定して書が成立つか如何かと云ふ前に、造型である以上、平面 上の一つの加工された技術による以外表現方法はないのである(「原始の書」)  かつて赤羽雲庭は、画箋紙が発明されてから書の堕落がはじまった、と言った。資産家として最高の紙を使い切った人のことばは深遠であろう。須田剋太も即興的な墨書を試みているが、この『華厳』のように油彩 のテクスチュアをよく定着させているのは、やはり、画家の書であり、みずからの主張にも適うことではないだろうか。


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