歴史の中の「書」13
津金寉仙 『 述 志 』  田宮文平

 

 

          
 

述志(一筆破天荒) 日展 昭和33年(1958) 

  

 この『述志(一筆破天荒)』は、文明評論家の伊福部隆彦をして不世出の大天才と言わしめた津金寉仙が、昭和三三年(一九五八)の日展に発表した作品である。急逝する二年前のもっとも脂の乗り切った時期の気宇の大きな書である。  

 標題は『述志』となっているが、それが「一筆破天荒」という文字に托されていることは自明であろう。このことばは、もともと科挙の進士合格の故事に因むものであるが、諸橋大漢和を引けば、「天地未開の時の混沌たる状態をやぶり開く。前人未踏の境地をひらくこと。」とある。この寉仙の書の心意気は、まさにその境地にあると言えるであろう。  書人津金寉仙の生涯は、一言で言ってまことに数奇である。  

 信州諏訪近郊の由緒ある家に生まれた津金寉仙は、三六歳まで村会議員、助役、学務委員等を勤める名士であった。それが、俄に家を捨て故郷を出て一介の書人として生きようと決意するのだから周囲の人にとって驚天動地のことであったにちがいない。人生五〇歳が常識の時代ならば、そろそろクロージングを考える齢である。かの良寛でも家を捨てて出家したのは、もっと若い時であった。  

 はじめ諏訪市内に書塾を開いたが、翌昭和一一年(一九三六)には上京している。もともと書には幼少期から深いおもいがあり、爐辺に在っては灰の上に、馬に乗っては空に手習いをするほどであったから、中央書壇の事情にもそれなりに通 じていたらしく、戦前は松本芳翠の書海社に籍を置いて東方書道会展(旧東方)等に出品した。  

 その津金寉仙が一躍して脚光を浴びるのは、昭和二三年(一九四八)に日展に第五科書が開かれてからである。当初、寉仙はいまさら審査を受ける気持など更々無く、不出品の意向であったと言われる。しかし、優れた書の応募がなければ日展開設の意味がないと考えた周辺の人たちは、津金家の押入れを探して表具店に持ちこみ出品させたともいう。そして、昭和二四年(一九四九)、昭和二五年(一九五〇)の日展で連続して特選第一席となり、その自由奔放な書風は、戦後の開放的な気運とも重なって、たちまち全国の青年書人を熱狂させることになる。弟子が師に憧れても不思議はないが、門下でもないのに寉仙の書に出会ったがためにエリートコースを捨てて、書に転じる人も出るほどであった。  

 津金寉仙の書の根底に存在するのは、王羲之系統のものである。しかし、戦後のモダンな空気のなかでは、実は正統であるが故にあまり持て囃されなかった。昭和二〇年代を通 じてマスコミを専ら賑わせたのは、抽象表現主義と連動した前衛書(墨象)であった。伝統系でも従来の端整な書に代わって注目を浴びるようになるのは、明末清初の長条幅による奔放な行草書であった。また、清朝碑学の影響を受けて隷書や篆書系の書も新しい傾向として次第に歓迎されるようになる。  

 このような状況のなかでは正統の王羲之系は、ともすれば守旧のイメージで旗色がわるい。それを逆転の発想で、みごとに現代に蘇らせたのが、津金寉仙や赤羽雲庭ら一群の天才たちである。寉仙は、王羲之書の貴族主義的な優美さだけでなく、そのなかに秘められたアンバランスのバランスの本質を窮めて、現代の書に蘇生させたのである。赤羽雲庭また、王羲之を書かせたら同世代で右に出るものがないと言われたが、羲之の書に蘇東坡等の宋代の書の空気を巧みに持ちこんで新鮮さを取り戻したのであった。  

 かくて昭和三〇年前後には、津金寉仙の書は全国を席捲し、数々のエピゴーネンを胚胎した。そのブームにいちばん困惑したのは、ほかならぬ 寉仙自身ではなかったかとおもう。あたかも還暦を迎えようとしていた津金寉仙は、さらに書境を高めるべく理想を追って一万点の修業をみずからに課すと宣言した。しかし、まさにその時に不治の病が津金寉仙を襲うのである。世の中は、まことに不条理である。やがて死期を悟った寉仙は辞世の詩を書く。

 風塵脱却尚清真 翰墨悠游六十春
 去還道山松柏緑 又契神仙筆道因

一見、爽やかなようで、あの世でもまた書きまくるというのだから悔しさにあふれた詩でもあった。「一筆破天荒」の志は、来世にも托すというわけである。


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