歴史の中の「書」14
種田山頭火 『鉄鉢の中へも霰』  田宮文平

 

 

          
 

       種田山頭火 短冊(軸)  

  

  何しろ山頭火ブームである。それは、単に山頭火の文学そのものというより、すでに社会現象なのかもしれない。古くは良寛をはじめとして種田山頭火、尾崎放哉、金子みすゞ等々、その時代においては、ある意味で落伍者である人たちが、時代が変われば、その弱さ(本当は強靱な精神の持ち主とも言えるのだが)ゆえに評価されるに至る。社会制度や合理主義に耐え切れないナイーブさが、社会から食み出ることにもなるのだが、孤高に生き抜くためには、本当は強靱の精神が存在しなくては適わぬ ことであろう。
 
  近年、漢字かな交じりの書が注目されて、ブームの行きつくところ山頭火の句を題材とした書を見ることが多い。しかし、その一方で、山頭火の文学や生き方のイメージと合わないものに遭遇することも少なくない。かつて池田遙邨画伯の一連の山頭火の画に感動したことがあるが、そこには「風(かぜ)」のイメージが巧みに生かされていたからである。その画に描く側の表現者としての哲理が強固に存在していたのである。
 

 改めて考えると、意外なことには良寛にしても、山頭火にしても、放哉にしてもトップレベルの教養人であることである。しかも、その家も本来、裕福である。山頭火は早稲田大学に、放哉は東京帝国大学に学んでいる。ほとんどの人が尋常小学校レベルの時代に、これはエリート中のエリートと言ってよい境遇である。それが、何時の間にか家を捨て、家族を捨てて飄泊の旅に出て行く。現在のように社会制度が強固に築かれ、合理主義が徹底すると、その桎梏から解き放たれたいという気持が、″癒しの時代″などという甘いことばとともに社会現象となるのであろう。
 

 種田山頭火は、若い時代に酒造業等を営んでいたが、妻を戸籍上離縁し、大正一四年(一九二五)二月、四三歳のとき出家得度し、熊本県味取の観音堂の堂守となる。そして、翌大正一五年(一九二六)四月から行乞流転の旅に出るが、その最初に詠んだ句が、
  

  分け入っても分け入っても青い山

である。これは、句集『鉢の子』に収録されているものだが、この句集には、
  

  どうしようもないわたしが歩いてゐる
  うしろすがたのしぐれてゆくか
  鉄鉢の中へも霰

などのよく知られた代表句が収められている。
 山頭火は、はじめツルゲーネフの翻訳をしたり、定型俳句を作っていたが、大正二年(一九一三)に荻原井泉水に出会い、自由律俳句に転じる。そして作句は、托鉢放浪の存在証明そのものとして欠かせないものとなった。五〇歳になったときには所感をつぎのように述べている。  私は労れた。歩くことにも労れたが、 それよりも行乞の矛盾を繰り返すこと に労れた。袈裟のかげに隠れる、嘘の 経文を読む、貰ひの技巧を弄する、― 応供の資格なくして供養を受ける苦悩 には堪へきれなくなったのである。
 

 さらに「私は、我がままな二つの念願を抱いてゐる。生きてゐる間は出来るだけ感情を偽らずに生きたい。これが第一の念願である。言ひかへれば、好きなものを好きといひ、嫌ひなものを嫌ひといひたい。やりたい事をやって、したくない事をしいないやうになりたいのである。そして第二の念願は、死ぬ る時は端的に死にたい。俗にいふ『コロリ往生』を遂げることである。」(「私を語る―(消息に代へて)」)とも記している。
 

 この山頭火の「鉄鉢の中へも霰」の書は、短冊を軸に仕立てたものであるが、スケールは大きい。そして、その書のなかに、おのずと書への素養が感じられるのは、毛筆が主たる筆記具であった時代には、知識階級には能筆の人が少なくなく、「書は万人のもの」であったからである。昨今の調和体(読める書)では、草書体や変体かなを忌避する傾きがあるが、この山頭火自身の書では漢字は「鉄鉢、中、霰」はすべて草書体、「の」は変体かなである。書が、いまだ、それだけ教養階級のものであった証明でもあろう。それが、いまや大衆社会で草書もダメ、変体かなもすべてダメなどと言えば、こうした歴史的な書までもが鑑賞の対象からはずれてしまうのであろうか。
 山頭火は、昭和15年(1940)10月10日夜、みずからの一草庵で句会を催したが、酩酊して出席せず、散会後、「コロリ往生」しているのが発見されたのであった。 


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