歴史の中の「書」15
辻本史邑 『 白楽天詩 』  田宮文平

 

 

          
 

白樂天詩七絶 1957年 

  

 今日、隆盛を誇る関西書壇のグランド・デザインを描いたのは辻本史邑である。それは、関西書壇自体へ種を蒔くことはもちろん、対中央書壇への戦略において傑出したものがあった。時代状況が刻々と変貌しつつあることへの先見の明があったからであろう。

 関西の書は、歴史的に言えば、むしろ中央的存在であるが、明治開国以来、国家の仕組みが東京圏へ移るに従って、書でも文検制度(文部省習字科検定試験)をはじめとして中央集権的制度が確立し、昭和戦前期の書道団体は、泰東書道院、東方書道会、大日本書道院、三楽書道会の東京圏の四団体が勢威を誇った。辻本史邑をはじめとする関西系の有力作家も、このいずれかに所属して実力を涵養したのである。

 辻本史邑は、大正七年(一九一八)に文検に合格すると、母校の奈良師範学校に任じた。そして、大正一四年(一九二五)には、書道雑誌『書鑑』を創刊したが、忽ち一万部を超え、最盛期には会員が二万人にも及んだという。これで財政基盤を築くと教職を辞し、山本竟山らと共に中国に渡り、碑法帖の蒐集に力を傾注した。その結果 として『昭和新選碑法帖大観』全36巻、『昭和法帖大系』全15巻などの古典資料を刊行し、新しい時代にふさわしい学書の方法論の普及につとめたのである。

 『書鑑』誌は、昭和一九年(一九四四)、戦時統合で、やむなく休刊したが、一方で辻本史邑は大日本書道報国会の関西支部長に任じた。

 第二次大戦が終了すると、中央書壇では、いち早く日本書道美術院など再建の動きがあった。しかし、このとき辻本史邑は、みずからが所属した東方書道会が立ち遅れたこともあってか動かず、逆に大日本書道報国会関西支部長の経歴を生かして、同志とともに日本書道院(現社団法人日本書芸院)を創立、中央書壇からの自立を企った。復刊した『書鑑』を事実上、日本書芸院の機関誌としたことも、この電撃的な作戦が成功した要因であった。おそらく辻本史邑の頭の中には、東の横山大観、西の竹内栖鳳の日本画壇の構図が浮かんでいたにちがいない。

 このように関西書壇の独立性を確かなものにすると、辻本史邑は、みずからが所属した旧東方書道会の精神にもとづく徹底した習錬主義、実力主義を奨励した。昭和二三年(一九四八)に新しく中央書壇に誕生した日展第五科書で勝ち抜くためには、それしかないと檄を飛ばしたのであった。当時、関西系の書の審査員は、わずかに辻本史邑一人であったのだから、それだけ危機感があったのである。配下には徹底した習練を命じながら、一方では単騎上京して関西のために政治力を発揮した。これが、みごとに奏効して、昭和二四年(一九四九)の日展第五科のはじめての特選には炭山南木、村上三島、内田鶴雲、梅舒適の関西系の四者が選ばれ、関東系に対し五分の勝負に持ち込んだのである。これが戦後の関西書壇隆盛の出発点となった。

 辻本史邑は、もともと日下部鳴鶴門四天王の近藤雪竹に師事した人である。鳴鶴書学の根幹は、楷書は鄭道昭、草書は書譜、隷書は張遷碑等であったから、辻本史邑も近代書学の正統を歩んだ。それをベースに先述したように中国に渡って蒐集した碑法帖によって広大な書学を形成した。この世代の書人は師風伝承から古典学書への転換期に位 置するのである。そして、西洋風の天井の高い美術館の壁面に適応するためには、王鐸や傅山などの明末清初の長条幅をいち早く研究するのである。その申し子のように辻本史邑に認められたのが、村上三島である。

 関西の習錬主義、実力主義が関東と五分に渡りあえるのを見届けると、辻本史邑は昭和二〇年代の後半にかけて、みるみるうちに心境的な書へと転じる。揚州八怪の金農や、わが仙看や鐵齋の書が、俄に視野に入ってくるのである。いわば、客観主義から主観主義へと大きく舵を切った感があった。

 古典学書に基づく客観主義は、いわば書学の大道である。しかし、最終的に行きつくところは他の誰でもない境地の書なのかもしれない。辻本史邑は、昭和三二年(一九五七)、この『白樂天詩』の書を発表してからまもなく世を去った。六二歳であった。いまの長寿社会なら鼻たれ小僧と言われかねない齢であるが、人はそれぞれの身に合った寿命の中で老成していくのにちがいない。


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