歴史の中の「書」16
會津八一 『五言対聯(林下湖邉)』  田宮文平

 

 

          
 

対聯 林下十年夢 湖邉一笑新 1949年

  

 會津八一は、早稲田大学英文科に学んだ坪内逍遙門下の英文学者であり、東洋美術に造詣の深い美術史家、さらに『南京新唱』に代表される平かな声調で名高い歌人でもある。

 その會津八一が、俄に書(壇)との関係で波紋を投げかけるのは、昭和二三年(一九四八)に日展第五科書が開設されたときである。

 戦前から官展への書の参加を国会等へ請願していた豊道春海が、昭和二二年(一九四七)に日本芸術院会員に就任すると、かねて占領軍の文化政策に危機感をもっていた日本画の松林桂月、彫刻家の朝倉文夫らが、書とも手を結ぼうと、助力の手を差しのべ、俄に日展第五科書が誕生することになったのである。しかし、美校出身者等の多い日本画、洋画、彫刻、工芸の他科に対して、当時、正規の大学教育を受けた書道関係者は、尾上柴舟、西川寧くらいであった。書や篆刻の技倆そのものに問題はないとして、特選審査等に関して美学的根拠を求められたら、さて、どうしたものかなど議論が百出した。それで、いわゆる書壇外からも広く人材を求めるべく、かねて西川寧と親交のあった會津八一も審査員候補として話題になったのである。が、これに反対したのが、同じ歌人でもあった、もう一人の書の日本芸術院会員であった尾上柴舟である。短歌の考えが、まったく合わなかったのが尾を引いたともいう。それで、西川寧らは、せめて招待出品(依嘱)でもと考えたが、順次に審査員に昇格する立て前の依嘱になるつもりなど、さらさらないとピシャリと断わられて、この一件は、何かはっきりしないまま流産した。

 それで、たぶん、納まらなかったのか、 會津八一は、昭和二四年(一九四九)の日展開催に合わせるかのように、かねて親交のあった新宿中村屋で書の個展を開催した。この『五言対聯(林下湖邉)』の双幅の書は、そのときに発表された一作である。噂では、日展に出品するつもりで用意していたものと言われもした。  會津八一は、従来、書壇とはほとんど縁がなかったが、書壇関係者で戦前から知り合いであったのが、西川寧、山田正平、堀江知彦等の人びとである。

 會津八一は、生来の左利きで小学校に入ったとき、いろはのいやろの字も書けなかったと自身告白している。その會津八一の書を、のちにはじめて認めて名刺の文字を依頼したのが、新潟市の木村竹香堂であった。それを恩に着た會津八一は、竹香子息の木村正平の一生の面 倒を見ると、遂には篆刻家の山田寒山の養子になる橋渡しまでする。堀口大學詩集『月下の一群』の検印用の印を山田正平に彫らせたのも會津八一である。

 會津八一と西川寧の関係は、西川が中国学の少壮気鋭の学徒として台頭したころから生じたようで、西川が河井懿廬に傾倒していることを知った八一は、懿廬書齋に因む「小継述堂」の書まで贈っているほどである。

 堀江知彦との関係は、同じ早稲田大学出身の美術史家であり、特に堀江が良寛研究家であったところからの、ご縁であろう。

 會津八一の日展問題を巡っては、この三者が何かと交渉に当たったが、尾上柴舟の壁は遂に崩すことができなかったのである。

 さて、會津八一の書であるが、左利きを右に矯正したことから独特のゆがみが生じ、それが実に新鮮に映りもする。また、書に関して独自の考えを抱いていた人で、「世間で手習といふけれども、手習をするといふとまづ先生を選んで、そして手本を選んでもらってそれを手本通 りに書くことと思ってゐるやうですが、実に馬鹿な話である。」とも言っている。會津八一の書名があがると、書のヒケツを問う人が増えたらしく、そんな人には新聞活字の明朝体を手本にして徹底して手習いをすることをすすめたりもしている。

 しかし、これは會津八一、一流のレトリックで、決して古典の否定論者でないことは、地元の良寛はもちろんであるが、王羲之や顔眞 等をはじめ書道史にも通 暁していて極めて高い見識をもっていたことからも肯定かれることである。そして、會津八一の一人の人間としての人格が全体像としてあらわれたのが、その書であるとも言えるであろう。

 それは、いまも日展の書の課題であろう。


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