歴史の中の「書」17
豊道春海 『 無 塵 』  田宮文平

 

          
 

無 塵 1958年 現代書道二十人展 

  

 豊道春海は、日本芸術院会員であり、天台宗大僧正であった。戦前の浅草の華徳院を焼け出されて、戦後、住した目黒の行元寺は檀家が無かったので、「いまや書道宗だよ」と苦笑いされていたのを想い出す。

 その豊道春海の功績は数々あるが、書(壇)に関しては、次の三つに集約されると言ってよいであろう。すなわち、

  日展第五科書の開設

  戦後毛筆習字の復活

  日中書交流の先駆者 の三項目である。

 書の官展への参加は、戦前から国会等へ度々請願していたが、昭和二二年(一九四七)に豊道春海が日本芸術院会員に就任すると、かねて占領軍の文化政策に危機感を抱いていた日本画の松林桂月、彫刻家の朝倉文夫らが書とも手を結ぼうと俄に参議院の議決を経て実現したものである。当時、日展は日本芸術院と日展運営会による官展であった。

 日展への書の参加によって、書は美術(日展は、日本美術展覧会)として認知され、やがて芸術院賞、文勲文功への道を拓いて書家の社会的地位の向上をもたらした。

 毛筆に関しては、昭和二二年(一九四七)にGHQ(連合軍総司令部)の指示によって小学校、中学校で廃止された。書道という名称によって剣道、柔道などとともに戦争協力の文化と誤解されたのかもしれない。これに猛反発した豊道春海は文部省に掛け合うが、官僚は腰砕けで適わず、直接、東京日比谷の総司令部に赴いてマッカーサー元帥宛に直訴した。これが効を奏して昭和二六年(一九五一)から国語科のなかで毛筆習字を採用してもよいことになったのである。

 中国とは、太平洋戦後、断絶状態がつづいて、硯や筆はともかく、消耗品の画仙紙等には窮した。昭和二七年(一九五二)に日本は独立しても中国は依然、内戦がつづいていた。しかし、日中は一衣帯水、同文同種、特に書に関しては千数百年の交流があった。それで日中国交回復の先駆けとなったのは、書とピンポン外交であった。昭和三三年(一九五八)、豊道春海を団長とする第一回日本書道代表団は、いまだ、国交回復の十数年前であったが、羽田、香港経由で北京に至り、豊道春海は「和平友好」と大書して両国の融和につとめた。これを取り持ったのが、当時、片山哲首相の秘書で、日中文化交流協会の事務局次長であった村岡久平氏(現日中友好協会理事長)である。

 さて、前段が少々長くなったが、現在の書壇の隆盛は、この豊道春海の先見性に負っていると言っても過言ではないのである。わたしは、平成時代にせめて東京藝術大学をはじめとする芸術系の大学に書道学科を設置すること、国立近代美術館に書の学芸員を送りこむことを一貫して提起しているが、書(壇)の未来図を描ける人材が払底しているのは、まことに情無い。

 豊道春海が、そもそも、書に関わるようになったのは、数え六歳のとき、母方の叔父の篠原守慶が住職をつとめる上野東叡山春性院に預けられたことからであった。目的は母の菩提を弔うことであったが、僧になるならば、書は必須であると、少年の身では特別に、ときの大家西川春洞に就くことになった。ここに大人たちとは別メニューで ″楷書十年″の猛習がはじまったのである。途中、幾度も行草書もと願い出たらしいが、師はそれを決して許さなかった。

 豊道春海の書の強靱な骨格や精神性は、僧としての修業のなかでも培われたのであろうが、わたしは、この ″楷書十年″が、日本人離れのスケールの大きさを胚胎したのだとおもう。ここに掲出した『無塵』は、昭和三三年(一九五八)の第二回現代書道二十人展(朝日新聞社主催)に出品したもので、草書であるが、その強固の骨格は、とても八一歳の作とはおもえないほどである。

 豊道春海は晩年、日本芸術院の定数増員を実現したが、そのあまりに政治的手法が、とかくの批判を浴びることにもなった。しかし、信念はあくまで揺がず、逆に『八風吹不動』、『忍』、『辛棒』などの書を日展に発表して、それに応えた。結果的に書として、これらがいずれも代表作として遺ったのは、「書は人なり」という古来からの名言を期せずして証明することにもなったのである。


歴史の書indx