歴史の中の「書」18
中川一政 『春曉(孟浩然)』  田宮文平

 

          
 

五言絶句「春曉」 1985  

  

 中川一政画伯は、箱根駒ヶ岳や真鶴港の風景画やバラの絵等で親しまれた洋画家であるが、一方、日本画や陶芸、書など幅広く活動した。また、詩やエッセイの文筆にも手を染めてきた。

 もともとが美術学校に学んだ人ではなく、はじめ『早稲田文学』等に詩歌を寄せ、詩集『見なれざる人』も上梓した。絵は、大正五年(一九一六)の第二回草土社展に『監獄の横』(一)、(二)を発表して、岸田劉生に認められ、大正一二年(一九二三)の春陽会創立には、はじめから誘われて参加した。

 このようなわけで白樺派周辺に身を置いて、画人として、文人として活動したが、いわゆるアカデミズムとは距離をおいて、終生、すべてに文人的アマチュアリズムを一貫した。  

ここに掲出した孟浩然詩の『春曉』は、

  春眠不覺曉 春眠暁を覚えず

  處處聞啼鳥 処処啼鳥を聞く

  夜来風雨聲 夜来風雨の声

  花落知多少 花落つること知る多少ぞ

の人口に膾炙した五言絶句の書である。

 一見して中川画伯が好んだ金冬心風の書であるが、画伯自身によれば、「私の字を金冬心に似ていゐと云ふが、金冬心を知らぬ 前からさうなのである。上手下手を念頭におかず、はっきりとそしてしっかりと書かうとすれば誰の字でも金冬心に似てくるのである。」(「書の初歩」)と述べている。天性のものもあろう。

 中川画伯の生き方からして、もともとは書人とはあまりご縁がなかったようであるが、戦前から中村不折や西川寧は例外であった。中村不折は本来、洋画家であったし、西川寧にしても「書家だけにはなるまい。」と広言していた時代だったからにちがいない。

 中川画伯は、尋常三年生のとき ″中村先生″に書を習ったという。姓だけでは誰かは特定できないが、「中村先生は我々少年に書の動勢(ムーブマン)といふことを教へたのである。書の虚実を教へたのである。」(同上)。そして、「中学では斎藤芳洲という老先生」に習った。この人は、近代書史にも名のある人である。これらは素養として習字を習ったということであろう。

 はじめ金冬心については知らなかったというが、ひとたび知れば天性、波長が合っていたのだから虜になる。北京へ出掛ければ鄭道昭の拓なども買うが、もちろん、金冬心に目をひからす。

 金農(号冬心)は、揚州八怪の一人で官途でも高く評価されたが、生涯それにつかず布衣に過ごした。書は古隷にベースをおいて渾朴のスタイルを確立したが、特に楷書ではゴシック体のような独特の書をかいた。詩、書、画、篆刻に優れ、孤高の境地に生きた人である。

 このような金農の人柄を知れば知るほど、中川画伯は金農にのめり込んでいったようである。文人としての共通 の境地があったからであろう。そして、昭和二〇年代には、神奈川県真鶴町の中川一政邸に同好の士が集まって金農の詩を読む集まりも開かれる。池田古日、真田但馬、山田正平、国安芳雄、嵯峨寛、保多孝三等、いずれも一騎当千の文人的な強者である。そのときの雰囲気を中川画伯は、「真鶴の家へ集った時は皆海へ行って泳いだ。その時、正平さんは半紙を四つ折りにした帖面 を持っていた。それが正平さんのスケッチブックで、いつも懐に持っていたものらしいが、裸になる時わかった。」(『山田正平作品集』序文、木耳社刊、昭和51年)。それはまた、金農の詩の講読の際のメモ用紙でもあったろう。

 中川画伯の書は、その陶芸などと同様に上手下手で評価する類のものではないとおもう。いつだったか、東京日本橋高島屋で開かれた大規模の個展には、絵画のほかに書や陶芸も沢山、出陳された。何十本と並んだ書を見て、いささか閉口したことを覚えている。これが床の間に一本飾られ、備前に活けた薮椿でも添えられていれば、どんなにかよいだろうとおもったものである。陶芸でも、いかにも漏りそうなものを何十個も見せられてはたまらないであろう。

 文人の孤高の境地が、どんなものか、中川画伯の書は、それを問うているようにおもうのである。


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