歴史の中の「書」19
中林梧竹 『鎮國之山』(拓本)  田宮文平

 

          
 

鎮國之山(拓本)72歳  富士山頂浅間神社鳥居脇

  

 中林梧竹は、富岡鐡齋に劣らず健脚を誇り、たびたび日本一の山、富士山に登頂している。この『鎮國之山』の銅碑は、富士山頂の浅間神社鳥居脇に建てられたもので、明治三一年(一八九八)八月三日に、みずからも登頂して除幕を行っている。七二歳であった。最後に登ったのは、明治三九年(一九〇六)八月、八〇歳のときというから余程の健脚と執念である。別 号にも「蓮峯仙人」、「梧竹一號蓮峰」の印がある。蓮峰は、言うまでもなく富士山の別 称である。

 中林梧竹は、文政一〇年(一八二七)、肥前小城(現佐賀県小城市)に生まれた。幼少より書に神童といわれたが、中年までは激動の藩政に奔走し、書に専心するのは、五〇歳代以降である。

 明治一一年(一八七八)、五二歳のとき長崎を訪れ、清国領事余元眉に書法を問い、歴代の碑版法帖を譲られ、中国清代の書法に開眼した。わが国の近代書道史に名高い楊守敬が来日して日下部鳴鶴、巌谷一六、松田雪柯らに六朝書を伝えるのは、明治一三年(一八八〇)であるから、中林梧竹はそれに先じたわけである。

 さらに明治一五年(一八八二)には、余元眉の帰国に際して誘われ、はじめて清国に渡り、楊守敬の師ともいうべき潘存に書法を問う。北京に居住して江南にまで足をのばし、多数の碑版法帖を蒐集して、明治一七年(一八八四)に帰国、副島蒼海(種臣)の紹介で東京銀座二丁目の洋服店伊勢幸に居住し、以後、約三〇年を過ごし銀座の書聖といわれた。いま、名にし負う英國屋の並びにあるメルサビルが伊勢幸の跡地ともいう。現在、書人に親しまれている東京銀座画廊美術館や、東京セントラル美術館がそこに存在するのも深い縁というべきであろう。

 近代書道の聖地といわれる佐賀は、中林梧竹、副島蒼海という二人の偉人を生んだ。いまでも佐賀では、「梧竹さん、蒼海さん」と親しまれ、「梧竹・蒼海顕彰/佐賀県書道展」(佐賀新聞社主催)も盛大に開かれているが、この二人は門弟を採らず、従って、現代の書に、その人脈や書風の系譜は直接には存在しない。これは、同時代の書人で、現代に広大の人脈を誇る日下部鳴鶴や西川春洞の系統と比較して鮮やかな対照をなしていると言えるであろう。

 さて、話は再び『鎮國之山』の書に戻るが、なぜ、中林梧竹はこの碑を富士山頂に建てようとしたのであろうか。そのヒントになるかとおもわれるのが、この『鎮國之山』の碑の書風である。中林梧竹の書は、篆、隷、楷、行、草の各体から絵文字のような奔放のものまで、まことに幅が広い。そのなかで富士山頂の碑の文字が選ばれたことには、中国北派の書の中核的存在である雲峰山、天柱山の鄭道昭の書が念頭にあったのではないだろうか。その摩崖碑の古朴の構築性こそ、『鎮國之山』の書に通 うものである、とわたしはおもう。また、潘存は鄭道昭の摩崖碑を熟して名のある人でもあった。

 それと『鎮國之山』の碑は、「日本一」ということにも拘っているのではないだろうか。同じ山なら佐賀にも天山という名山があるのだが、中国一の書に対抗するのなら、やはり、日本一という気概でなければならない。それはまた、みずからの書への心意気でもあったのにちがいないのである。

 この碑は、石刻ではなく銅の鑄造である。陽刻にして文字を浮きあがらせるのには、その方がよいとおもったのかもしれない。あるいは、神護寺鐘銘の格調の高い陽刻の文字が念頭にあったのであろうか。

 しかし、この碑が金属であるがゆえに、富士山頂の高さから、たびたび、雷に打たれて損傷した。それを惜しんで、カルピス創業者の三島海雲社長が、ヘリコプターで下に降ろし、補修して再び山頂に建てたのは、日本書道史にのこる美談であろう。

 中林梧竹の多岐にわたる書および画は、郷里の小城市立中林梧竹記念館をはじめ、海老塚的伝翁のコレクションを一括譲渡された徳島県立文学書道館、東京麻布の財団法人書壇院(Z田苞竹記念会館)、新潟の雪梁舎美術館等にまとまったかたちで収蔵されている。また、その驚くほどの健脚で北海道から九州までの各地を旅をしたから、その土地土地にも残されている。近代書道史にその人脈を残さなかったと言っても、その書は実に多くの人たちに愛され、親しまれているので、その書の存在は、今日、いよいよ大きく感じられるのである。


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