歴史の中の「書」20
若山牧水 『恋/いざゆかむ』  田宮文平

 

          
 

恋 大正13年詠・筆

  

 若山牧水は、与謝野晶子、石川啄木とともに近代短歌史上、もっとも愛唱されてきた歌人である。それで最近でも榎倉香邨をはじめとして牧水の歌を書にかいて熱狂的なものがある。

 この三人の歌人に共通しているのは、晶子では『みだれ髪』、啄木では『一握の砂』、牧水では『海の声』の第一歌集に人口に膾炙した歌の多いことである。しかし、早世した啄木はともかく、晶子は後年、自選歌集を上梓した際、『みだれ髪』等の初期の歌を薄田泣菫、島崎藤村の模倣であるとし、「この嘘の時代の作を今日も人からとやかくいわれがちなのは迷惑至極である。」とまで言っている。「そのこ二十櫛に流るる黒髪の」、「清水へ祇園をよぎる花月夜」、「やは肌のあつき血潮に触れも見で」等々の名歌も、作者と世上の評価とが大いに異なるところが芸術の微妙なところであろう。

 若山牧水の第一歌集『海の声』(明治四一年七月刊)には

 ・白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

 ・幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

等々の誰もが知っている歌が収録されている。これだけを単独で読むと一見、叙景的な歌にもおもえるが、同じ歌集の

 ・海哀し山またかなし酔ひ痴れし恋のひとみにあめつちもなし

 ・ああ接吻海そのままに日は行かず鳥翔ひながら死せ果てよいま

 ・山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇を君

等の歌を見ると、前記の歌も単なる叙景ではなく、燃えあがるような恋情の歌であることが分かる。そして、

 ・けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く

に触れると、内面の深い闇をうかがう気さえするのである。その後の『独り歌へる』、『別 離』、『路上』、『死か芸術か』等の歌集にも、

 ・いざ行かむ行きてまだ見ぬ山を見むこのさびしさに君は耐ふるや

 ・海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり

 ・白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ

等々のよく知られた歌がある。

 最後の歌集となった『山桜の歌』(大正一二年刊)にも、

 ・うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花

 ・うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花

 ・とほ山の峰越しの雲のかがやくや峰のこなたの山ざくら花

等の名歌があって、これも書人がよく書く。

 若山牧水は生涯にわたって人口に膾炙する多くの歌をつくったうえに、全国を隈無く旅して歩いたから、北海道から鹿児島まで実に多くの歌碑が建てられた。それで、その歌とともに、その書も多くの人に親しまれ、知られることになったのである。

 若山牧水の書は、そのほとんどが明快な単体で書かれ、漢字かな交じりの国文と言っても、いわば、楷書のようなものである。この時代の歌人、いや、現在の歌人の書も含めてみても変体かなを使用しない稀有の例である。そのシンプルで明快なことが人びとに親しまれ、碑に彫りやすい大きな要因でもあろう。

 ところで、若山牧水の書の源流は何処に存在するのであろうか。牧水の時代の知識人にとって毛筆は、もっとも有力な筆記具であったのだから、日常的に毛筆がよく熟されたことは間違いない。書は、いわば万人のものであったのである。

 それにしても、あの独特の書のスタイルは、どのようにして出来あがったのであろうか。かつて、同じく歌人でもあった書家の松井如流は、藤原定家ではないかと指摘した。たしかに定家の書そのものよりも後世の定家様には似たものがある。しかし、牧水がそれを特に習ったとも思えない。若山牧水の歌の師は尾上柴舟であるから、もし、書を習う気があるなら同じ藤原でも行成の系統と考えるのが自然であろう。

 それはともかく師の尾上柴舟は、牧水の死を悼んで、「そのかみの西行芭蕉良寛の列に誰置くわれ君を置く」と詠んだ。多くの人びとに、その歌、その書が親しまれるゆえんでもあろう。


歴史の書indx