歴史の中の「書」21
赤羽雲庭 『暮山巍峨』  田宮文平

 

          
 

暮山巍峨 日展 昭和38年(1963)驥山館蔵

  

 近代書道史上、近来、非常に評価の高いのが副島種臣(蒼海)である。その理由は単一ではないであろうが、歴史上にほとんど比較するものがないというオリジナリティーが最大のものではないだろうか。すなわち、古今独歩というわけである。

 今回、採りあげる赤羽雲庭も近来、戦後の書としてメキメキ評価が高くなっている。その理由には、副島蒼海と共通 のものが存在しているように、わたしにはおもわれる。

 赤羽雲庭は少年のころ西川春洞門の七福神の一人の花房雲山に習った。雅号の由来でもあろう。その没後は、角田孤峯に師事したが、師は「唐の人も宋の人も皆二王を学びました。王羲之、王献之を学ぶかぎりあなたは唐の三大家とも宋の四大家とも兄弟弟子なのですよ。」という人であった。雲庭はそれを忠実に守ったが、「二王の書を学ぶことは、究極の目的はそれに似ることではなく、すぐれた点画の配合を学ぶことです。」ということに早くに気づく人でもあった。ここが書と習字の分かれ目である。

 かくして、昭和二〇年代には、三〇歳代にして「王羲之を書かせたら同世代に赤羽雲庭の右に出る者はいない。」とまで言われるようになる。羲之系の書法に宋代の風気を加味した書で赤羽雲庭は、日展で連続して特選をとり、忽ち新世代のスターとなった。

 しかし、昭和三〇年代の半ばに差しかかると、赤羽雲庭の書は、一見、禅林墨蹟の書かと見紛うほどに大きく変貌する。書壇すずめは「赤羽雲庭はあの若さで、禅僧でもないのにあんな書をかくとは気でも狂ったのか」とさえ噂した。後年、わたしがそれを問うと、「世間では王羲之云々と持て囃してくれるが、このまま行っても羲之を超えることなどできない。どうせ一度しかない人生なら、赤羽雲庭にしか書けないものを目指したのだよ。」と語った。

 若くして、そうした境地に到達しえたのも、赤羽硝子のオーナーとして、書を生活の糧とせずに済んだからでもあろう。加えて、戦後のみながどん底の時代に極めて裕福であったから、高価な文房四宝や美術品のコレクターとして、美に対する目を肥やすこともできたのである。のちに趣味が変わったのか手放すことになるが、岸田劉生の有名な麗子像三点、村嬢お松図二点をはじめとして最盛期には三〇点近くを収蔵していたと言われる。西川寧にすすめられて「麗子草堂」、それがあまりに露骨なら「霊芝草堂」にしたらどうか、というわけで、その刻印を早速、山田正平に依頼するのである。先般 、その遺品の三顆一組が、テレビのお宝拝見に流出して、わたしは見なかったが、五〇〇万円の値が付いたとか。

 とにかく法帖や明清の書、文房四宝、さらには池大雅、浦上玉堂、富岡鐵齋等々、欲しいものは何でも手に入れるようにして目を養った。こうした地下に隠れた赤羽雲庭を知らない人たちは、書の技法の変化だけにとらわれて、その変貌に驚いたにちがいない。

 この『暮山巍峨』が日展に発表されたのは、昭和三八年(一九六三)である。それ以前にも昭和三六年(一九六一)の日展で『凛嚴』によって文部大臣賞を得ており、もうその変貌振りは周知のことであったが、『暮山巍峨』のそもそもの発想は、そのころに溯るようである。

 赤羽雲庭は、昭和三六年(一九六一)に第二次訪中日本書道代表団(団長西川寧)に参加して、約一ヵ月にわたって中国各地を視察した。その途次、列車の車窓から見た薄暮の南岳(衡山)の風景に魅せられて、この書を発想したらしい。この作は、プラチナ箔の二曲屏風に書かれているが、そんな用紙は当時、常備されているはずはないから特注したのであろう。銀紙なら用意があったであろうが、これは時間の経過とともに焼けて黒っぽく退色するから、どうしてもプラチナ箔でなければならなかったにちがいない。

 プラチナ箔の紙は、画箋紙のように滲まないから、図版では分りにくいのだが、古墨が盛りあがるように書かれている。二曲屏風の中央の折れたところの用筆の変化を見ると、仕立ててから一発勝負に書いたのであろう。まさに、点画の配合の妙の発揮された書で、いかにも赤羽雲庭らしい一期一会の記念碑的な作である。


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