歴史の中の「書」22
森田安次 『風の又三郎』  田宮文平

 

 

          
 

「風の又三郎(宮澤賢治詩)」 1949年 第2回毎日書道展

  

 改めて考えてみると、不思議なことだが、漢字文化圏において、「書」とは通 常、一元的なものである。ところが、わが国においては、表音文字としての平かな、片カナを発明したために書も漢字系とかな系とに二元化したのである。

 昭和戦前期までの公募書展は、漢字書とかな書の二本立が基本で、書展によっては、これに篆刻部門が加わった。日常の国語としては、漢字かな交じり文が圧倒的に使われたのにかかわらず、それらを素材とした現代文の書は、書展に採用されることがなかった。近代書道史上、近代現代の国文の書が評価されるのは、ずっと後のことであるが、それらは正岡子規、樋口一葉、与謝野晶子、若山牧水、室生犀星ら主として文学者が書いたものであった。  

 しかし、近代も昭和戦前期に至ると、新世代の書人たちの中には、北原白秋の詩歌やジャン・コクトオの訳詩を書きたいと考える人が出現しだしたのである。書が、∧ことばとかたち∨を同時に伝える芸術であれば、いつまでも漢詩漢文、万葉古今の古典ばかりではなく、同時代感覚の国文を書の素材として選びたいと考えるのも当然であろう。それで、飯島春敬や金子亭らによって試作が繰りかえされる。しかしながら昭和戦前期までは、一つの部門として確立されるほどの成熟をみることはなかった。

 一つの美の概念が確立するためには、たとえば、王羲之『蘭亭叙』のような出現を待たなければならない。絵画でもセザンヌの『サント・ヴィクトワール山』は、一つの時代を築く。現代文の書において、そのような役割を担って登場したのが、昭和二四年(一九四九)の第二回毎日書道展に発表さた森田安次のこの『風の又三郎』(静岡県立美術館蔵)であった。この作を見たとき、人びとは、はじめて現代の国文も芸術性を内含した書になりうるとの希望を抱いたのである。

 森田安次は、静岡県の人で沖六鵬や平尾花笠などに私淑した、どちらかと言えば、かな系の書人である。少年時代から宮沢賢治の童話や詩に親しんでいたが、たまたま、静岡へ東童劇団が来て「風の又三郎」を上演したことから、この『風の又三郎』の書の発想が劇的に生まれたのであった。そのときのことを森田安次は手記として遺している。

   私は少年時代をふりかえりながら宮沢賢治の小説や詩を好んで読んだ。たまたま静岡へ 東童劇団が来て「風の又三郎」を上演することになったので、生徒たちと観劇し、いっそ う感銘を深くしたので、もう一度長女と観劇した。それから約一年、「風の又三郎」は、 いつも私の頭から消え去らないで、どこかで「どっどどどどう……」の歌がひびいて来る ような気がした。そしてある日、私は無意識に墨をすっていたが、何を書くというあても なしにただ無我夢中ですっているうちに、今日でなければ幻のように心にえがいている「 風の又三郎」は書けないような気がした。そしておのずから「どっどどどどうど」と口ず さみながら気をしずめようとしてゆっくり墨をすり続けていた。もうじっとしていられな くなった。焼けあとに建てたせまい小屋の一室に紙をひろげた。それから約三十分は自分 が何をどうしたか知らない。狂った人のように書き投じた反古を山と積むうちに二枚だけ 自分の気持を満たしたものが書きあげられたのでグッタリとして筆をおいた。

 名作が誕生する瞬間を克明に記した珍しい一文である。「風の又三郎」の原文のもつリズム感は、表音文字の平かなだから捉えられたとも言えるであろう。また、散布の美しい空間は、漢字書にはないかな書独自の世界である。

 周知のように宮沢賢治の生前に刊行されたのは『春と修羅』が唯一のものである。それで森田安次の時代は定本が完成せず、「あまいざくろをふきとばせ/すっぱいざくろもふきとばせ」となっているが、いまは、「青いくるみも吹きとばせ/すっぱいかりんもふきとばせ」となっている。

 森田安次は、惜しくも夭逝したが、やがて『ゆき(草野心平詩)』の代表作で知られる青木香流というよき継承者を生み出すのである。


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