歴史の中の「書」23
西郷南洲 『敬天愛人』  田宮文平

 

 

          
 

敬天愛人      六二・四×一四五・四

  

 「敬天」は、詩経等に説かれるところだが、「敬天愛人」は、諸橋大漢和には西郷南洲の語と記されている。そして、『西郷南洲遺訓』を引いて「道は天地自然のものなれば、講學の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始す可し。」と述べている。

 この「西郷南洲遺訓」は、鶴岡(庄内藩)の人によって編まれたものである。戊辰の役の処分が、他の奥羽列藩のように減封左遷や戦役責任者の処罰がなく、賠償金七十万両にとどまったことを、西郷隆盛の計らいとして、その恩義に報ゆるべく藩主酒井忠篤は鹿児島を訪れている。このとき同道した一人が書家Z田苞竹の師の黒崎研堂である。

 わたしは、『Z田苞竹』(西東書房刊、一九九〇年)の執筆調査のため、生地の鶴岡市を幾度か訪れたが、はじめは南洲神社があることなどを不思議におもったものである。『西郷南洲遺訓』は、鶴岡の人びとによって、明治二二年(一八八九)に刊行されたもので、南洲神社には、「敬天愛人」の書碑も建っている。これらの行事が延び延びになったのは、明治二二年(一八八九)の明治憲法の発布で、西郷隆盛の名誉が回復するのを待つ必要があったからである。

 掲出の『敬天愛人』の書は現在、東京国立博物館に収蔵されているものだが、他にも幾つかある。また、東京上野には、例の「西郷さんの銅像」があって、東京育ちの子どもたちは、大久保利通 の名は知らなくとも、みな小さいときから親しんできたものである。それは、たぶん、江戸無血開城の西郷隆盛と勝海舟の会談が、巷間に広く伝えられてきたからにちがいない。後に海舟は、『氷川清話』で、「このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失はず、談判のときにも、終始座を正して手を膝の上に載せ、少しも戦勝者の威光でもって敗軍の将を軽蔑するといふやうな風が見えなかった事だ。」と語るが、こうした伝聞が庶民レベルにもよく浸透していたのであろう。

 西郷南洲の書は、書状などでもよく見られ、毛筆が唯一の筆記具であった時代を彷彿として、なかなかの腕前である。しかし、『敬天愛人』の書はまた別 格で、豊潤で抱擁力のある用筆は、座右の銘であったことばの内容と切り離して考えることはできないであろう。書が、〈文字のかたち〉と〈ことばの意味〉を同時に伝える芸術であるとすれば、この「敬天愛人」を書くときにはまた、格別 の心境が伴ったにちがいないのである。

 それでは、西郷南洲の「敬天愛人」の思想は、いつごろから形成されたものであろうか。

 西郷隆盛は、そもそもは島津久光の東上に反対したことから不興を買い、文久二年(一八六二)に徳之島から更に沖永良部島へと遠島を申し付けられる。島津斉彬が江戸、京都の要路に通 じていたのに対し、久光はそれまで鹿児島を出たことがなく、それを心配して西郷が進言したことが直接間接に影響したのであった。この辺のバックグランドは、例のNHK大河ドラマ『篤姫』にも描かれたところである。

 沖永良部島は、遠島としてもっとも重い罪であったが、西郷隆盛は従容として赴いた。藩の命令は「囲ニ召込」だったというが、いかに南国とは言え、冬になれば風も厳しい。しかし、やがて西郷の人柄に触れた見張り役人は、「囲ニ召込」を座敷牢と拡大解釈して処遇を変える。西郷隆盛は、ここで昼夜を問わず座禅や読書に励んだという。沖永良部島は、その一歩先は、もう琉球で清国と往来する知識人も存在した。

 西郷隆盛は、読書に励んで漢学の素養を深めるとともに島の人びととも交流するなかで、「敬天愛人」の境地へと進んでいったのである。先に『西郷南洲遺訓』を諸橋大漢和から引用したが、さらにそのつづきには、「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬ べし」と記される。西郷隆盛は、佐藤一斎の書を片時も放さず熟読していたというが、「敬天」という中国の思想は、それを介してのものだったのかもしれない。

 西郷隆盛は、明治新政府では参議にまでのぼりつめるが、その後、下野して西南戦争に至る顛末は広く知られるところであろう。しかし、いまや、『敬天愛人』の書と思想をもって、その人物の大きさが、いよいよ伝えられる時代を迎えているとも言えるであろう。


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