歴史の中の「書」25
清水比庵 『毎日佳境』  田宮文平

 

 

          
 

毎日佳境 1968年 

  

 清水比庵は、一つの肩書きで呼ぶとすれば「歌人」ということになるのだろうか。もっとも肩書きなど欲する人ではないので、講演など頼まれたときに「文学博士とか芸術院会員とかいうような立派な肩書きがあるといいんですが、何もない。それで結局歌よみということにしてもらいました。」(清水比庵講演録「書の歩み」、全国書道学会、東京学芸大学、昭和41年)ということになる。

 清水比庵は、それで歌人ということになるが、「書の歩み」の講演を頼まれるように、書も画も巧みである。ここに採りあげた『毎日佳境』のように書プロパーの作もあるが、書画一体があり、書画と歌一体の作もある。かつて、川合玉堂画伯に出したみごとな書簡を見たことがあるが、そうした率意のものにも独特の境地がある。

 また、「私の書は、書を立派に書こうというよりも、歌を立派に書こうという書なんです。歌を立派に書こうというための書なんですから、いわば書家の書でなしに、歌よみの書です。」(同上、講演録、傍点田宮)ともいう。

 歌と書の令名が高くなると、清水比庵はおのずと書人、なかんずくかな人との交流が生じたようである。特に桑田笹舟、三舟父子とは、ご縁が深い。今回の『毎日佳境』も実は桑田三舟所蔵の作である。また、座馬井邨は、「かなを書く人は、歌を詠むべきです。」と比庵翁に言われて六〇歳のときに決意、七〇歳、八〇歳、九〇歳で歌集を上梓し、その都度、収録した全部の歌を書くという壮大な書展を開いている。座馬井邨は健康のために毎日、岐阜長良川沿いを一時間ほどウォーキングするらしいが、健康維持とともに書や歌の構想がまとまると「一石三鳥」と称している。

 清水比庵は、かくして文人的イメージの人となったが、その経歴はかなり変わっている。明治一六年(一八八三)に岡山県上房郡高梁町(現高梁市)に生まれて、岡山の旧制第六高等学校から京都帝国大学法学部へとすすんだ。それで卒業後は法曹の世界に身を置いたが、やがて安田銀行に入社、さらに古河銀行へと転じた。古河銀行の縁から古河電気工業日光精鋼所につとめたが、この時期、栃木県日光町との縁ができ、乞われて遂には町長にまで就任することになった。

 このように、清水比庵はエリートとして法曹界から財界、さらには政界にも足を踏み入れるが、歌は素養として幼少期から馴染み、書も厳父が漢詩などを書くのを側で見て育った。
 同じ岡山の尾上柴舟は津山市の出であるが、やはり、書と歌で大成したところをみると、当時の岡山の教養階級には、そのような風土が日常的に存在していたのであろう。

 清水比庵は、昭和一〇年(一九三五)には「比庵」と号するに至り、昭和一四年(一九三九)には、日光町長も辞して文人三昧の生活へと転ずる。昭和一七年(一九四二)には、川合玉堂画伯の賛助を得て実弟清水三溪と「野水会」を設立して、銀座紀伊国屋書房画廊で開催し、玉堂画伯死去までつづける。また、昭和三七年(一九六二)には奥村土牛、小倉遊亀、酒井三良画伯の賛助を得て、清水三溪とともに有山会展を開いている。

 清水比庵は歌にも書にも独特の考えの持ち主であった。「私は歌のあるグループ(『窓日』主宰、田宮注)におりますが、そのグループの人達に、人間は社会に奉仕しなければいかん。奉仕のできるような人間でなければいかんと主張している。その奉仕の一つとして顔の奉仕がある。人間はよい顔をしておれば、それが社会への奉仕になるという主張なのです。よい顔をしておる人が集まると、自然平和にもなる。それから和やかにもなる。それからまあ文化の発展をする。人間はそれで顔が良くなければ仕事も良くいかん。例えば書道で言いましても、顔のいい人でないと、書がうまくないと、こういう結論になります。」(同上講演録)。

 そういう意味を敷衍して考えると、この『毎日佳境』のおおらかな書は、清水比庵翁八十五歳の顔が生み出したものと言えるのかもしれない。古来、「書は人なり」という。プロの技術で書く書人の作だけが、「書」ではないということでもあろう。


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