歴史の中の「書」26
日下部鳴鶴 『大久保公神道碑』  田宮文平

 

 

          
 

日下部鳴鶴 大久保公  碑 宮内廳書陵部 

  

 わが国に中国から書が大量に招来されるのは、唐代からで、それは書聖王羲之像が確立された時代でもあった。その後、宋、元、明代の影響を受けると言っても、わが国の書は一〇〇〇年余にわたって、いわば王羲之を根幹として展開してきたと言っても過言ではない。

 ところが、わが国近代の書は、清朝の実証的書学を移入することによって、新しい時代に対応しようとしたから劇的に変貌することになった。学芸の中心が、京都から東京に移ったことが、新しい思潮を移入し、醸成されやすくもした。これは書に限らず、美術でも黒田清輝の油絵や、小山正太郎の「書ハ美術ニアラズ」等、激変したのである。

 この時代の書の象徴的存在が、今回採りあげる日下部鳴鶴である。

 鳴鶴は、天保九年(一八三八)に彦根藩士の子として生まれた。父三郎衛門は、桜田門外の変に大老井伊直弼の供頭役に任じていて亡くなった。鳴鶴自身も槍術の名手であった。

 書は、はじめ巻菱湖風を習って書名があり、明治元年(一八六八)、三一歳のとき新政府の太政官の少書記官に任じ、つづいて大書記官に昇進して大久保利通の信任厚いものがあった。しかし、明治一一年(一八七八)に利通が暗殺されたのを機に官を退き、書人として身を立てることを決意した。その二年後の明治一三年(一八八〇)に清国公使何如璋の招きで楊守敬が来日したのは、わが国近代の書にとって運命的な巡り合わせであった。

 楊守敬は、中国では書名のみが伝えられて、すでに失われてしまった漢籍が、日本には多数存在することを知って、その調査と蒐集のために来日したのであるが、その際、多数の碑版法帖類を携行していたのは、わが国近代の書の展開に幸いであった。これを聞きつけた日下部鳴鶴、巌谷一六、松田雪柯らは、楊守敬を訪れては、碑法帖を拝見し、ときには譲りうけ、最新の書法を問うたのである。そこに南朝の王羲之系とは別途の北朝の書が伝えられ、当時、″六朝書道″と言われた新傾向の書が盛行をみるに至るのである。そして、これが鳴鶴四天王といわれた近藤雪竹、丹羽海鶴、渡邊沙、比田井天来らに受けつがれ、今日の書(壇)に最大の人脈を形成することになる。

 日下部鳴鶴は、楷書は鄭道昭、草書は書譜、隷書は張遷碑などをみずから熟し、人にもすすめて、伝統の和様感覚とは別
途の新感覚の書風を確立して、″鳴鶴流″
として一世を風靡した。特に鄭羲下碑や高貞碑をベースとした楷書は、新興国家の意気軒昂の風潮にぴったりしたので、建碑の文字としても盛んに持て囃された。

 その最高傑作が、いまも東京の青山墓地にある大久保公神道碑である。

 この建碑は勅命によって行われたもので、伏見貞愛親王が篆額を題し、本文は重野成齋が撰文、書は大久保利通と縁が深く、当時、第一人者といわれた日下部鳴鶴に勅命が下ったのである。鳴鶴は、それまでにも数多の碑を書いているが、勅命かつ恩顧を被った大久保公の神道碑であったから加賀山中温泉の大倉財閥の別荘を半年にわたって借りうけ、齋 沐浴して取り組んだ。

 書風は、北朝の鄭羲下碑、張猛龍碑、高貞碑等のスケールの大きさに加えて、初唐の歐陽詢、虞世南等の整斉な格調を参酌して畢生の書業を目指した。全文二九一九字の巨碑であるから字体等に誤りがあってはならぬと慎重を期し、草稿が出来あがると、宮内省所属の学者の校閲を願い出た。

 かくして明治四三年(一九一〇)、鳴鶴七三歳のときに完成、その雄渾かつ明快な楷書は一代の傑作と称えられて、その後、いわゆる鳴鶴流の典範として今日の書(壇)へも伝えられることになったのである。それをさらに一般化したのが、「三体千字文」で、いまでも基礎として習う人も少なくない。

 楊守敬から日下部鳴鶴らに伝えられた廻腕法は、懸腕法の一種で、四本指を前方にかける四指斉頭の法で、これを鳴鶴は東京温恭堂製の羊毫の超長鋒筆「長鋒快劔」、「一掃千軍」でみごとに熟したから、スケールの大きな書が生まれたのであった。

 いずれにしろ、この碑は、書風と言えども時代の空気が生み出すということを鮮やかに実証する書例となったのである。


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