歴史の中の「書」27
中村不折 『李太白贈鄭湮陽詩』  田宮文平

 

 

          
 

李白戯贈鄭湮陽詩 1941年頃  

  

 中村不折は、一般には大平洋画会系の洋画家として『建国剏業』等の代表作で知られる人である。しかし、いまや台東区立書道博物館を創設した書人として益々評価が高くなりつつある。何かと縁のあった正岡子規の「子規庵」が近くにあるのでセットで訪れる人も多い。


 中村不折は、慶応二年(一八六六)、江戸八丁堀の生まれだが、少年期を父母の郷里の長野県高遠で過ごした。江島生島事件で、江島が幽閉されたところで、いまは高遠桜が特に有名である。


 高遠時代には南画を習得した不折であるが、明治二〇年(一八八七)に上京して「書ハ美術ニアラズ」で知られる洋画家の小山正太郎の不同舎に入門した。この時代、正岡子規の紹介で新聞等に挿画を書いていたが、明治二八年(一八九五)には日清戦争の従軍記者として中国に渡り、本場の書に目覚める契機ともなった。明治三四年(一九〇一)には、パリへ留学したが、この際、龍門二十品や書譜等を携行して、洋画研究と共に臨書に没頭した。少年期に学んだ南画の経験からも書線の重要性を認識していたからにちがいない。


 四年間の留学を経て帰朝後、洋画家として名をなしたが、清朝崩壊後、大量の文物が流出するのを見て書資料の蒐集に傾注し、その生涯にあつめたものは一万数千件ともいわれる。これを礎として独力で書道博物館を開設したが、のち台東区に一括譲渡され、公立の博物館として運営されている。近来は、東京国立博物館、三井記念美術館とよく三館の共同企画展を組むが、歴代の中国名帖はほとんど尽されていると言ってよい。三井記念美術館には、かつて三井聴氷閣に河井懿廬が協力して蒐集した数々の名帖が収蔵されているのである。


 書や書資料の研究で名をなすに従って、中村不折は書壇ともおのずと縁ができる。明治四〇年(一九〇七)には、名だたる書人を糾合して談書会が発足するが、中村不折は日下部鳴鶴、近藤雪竹、河井懿廬、阪正臣らとともに幹事に任じている。これは、日下部鳴鶴を中心に隔月に会合し、河井懿廬が学術顧問役となって、会合当日陳列した参考品を後日影印して「談書会集帖」として晩翠軒から発行し、学書の推進に多大の貢献をした。


 しかし、当時の大御所で正統派をもって任じる日下部鳴鶴と中村不折は、談書会でもたびたび書道観の相違から対立し、遂には不折の六朝書研究を邪道とまで指弾するに至るのである。これに対し、中村不折らは明治四五年(一九一二)に龍眠会を結成し、日下部鳴鶴らのアカデミックな主張に反発し、これに賛同した俳人の河東碧梧桐らは、あえて奇態な書をかいて烽火をあげた。そして、行きつくところ、鳴鶴が温恭堂に超長鋒の「長鋒快剱」をつくらせれば、不折は筆匠平安堂に短鋒の「龍眠」をつくらせて対抗するまでに至る。


 日下部鳴鶴は、楊守敬伝来の鄭羲下碑や張遷碑等によって正統を主唱し、勅命を受けて大久保公神道碑を揮毫するまでに至るが、中村不折は、楊守敬をして「貴ぶに足らず」とした中岳嵩高霊廟碑や避遠の雲南省から出土した素朴な爨寳子碑などを推奨し、定型に拘らない自由な書を主張した。鳴鶴が書学プロパーの人であったのに対し、不折はもともとパリ留学経験もある洋画家であり、正岡子規らの文人と交流もあって柔軟な思考をもっていたからでもあろう。あえて言えば、書において大正デモクラシーの自由さを先取りしたとも言えるかもしれない。そして今日も、あまり意識されていないが、第二次大戦後、上田桑鳩、大澤雅休、比田井南谷らが切り開いた前衛書(墨象)の思想的先駆をなしているとも言えるのである。


 この中村不折の『李太白贈鄭湮陽詩』は、晩年の書で、龍眠系の書としては、むしろまとまっている感もなきにしもあらずであるが、礼器碑にも比すべき神品と言ってはばからなかった広武将軍碑をベースに中岳嵩高霊廟碑等を参酌して不折独特の書に仕上げている。筆は、筆匠平安堂製の短鋒「龍眠」によったと言われている。


 ところで、中村不折は信州の縁でか、諏訪の銘酒「眞澄」の文字を揮毫しているが、まったくの下戸であったと聞くと、人は分らないものである。


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