歴史の中の「書」29
三輪田 米三 『 無為 』  田宮文平

 

 

       無為 131.4×63.0  

  

 美術品は、作者生前に広く認められても没後は時間の経過とともに忘れられていくものも少なくない。世俗の権勢という光背が失われるとともに、その作品も次第に光を失いがちになる。江戸時代に月並み俳壇の大御所などといわれながら、いまでは名も知られないのは、その典型的な例であろう。

 逆に生前はあまり知られなかったが、その後、傑出した目利きに出会って広く知られるようになるものもある。良寛の書は生前から越後周辺には知られていたが、やはり相馬御風によって全国的に喧伝されるようになった。今回、採りあげる三輪田米山も伊予松山周辺では早くから知られていたが、これも山本發次郎という具眼の人を得て全国区の存在になった。この老子語による『無爲』も、そのコレクションに加えられたものの一点である。(現在は、大阪市立近代美術館建設準備室宝蔵)。

 山本發次郎は、佐伯祐三の発見者にしてコレクターとして夙に有名であるが、その審美眼のベースは、東洋美術の線にあった。従って書は常にその核心にあり、白隠、寂厳、慈雲、明月、仙看、良寛を早くから蒐集につとめたのも、その基準に適っていたからである。その延長線に登場してきたのが、三輪田米山であった。

 山本發次郎は、明治二〇年(一八八七)岡山県の生まれで、県立高梁中学を卒業して東京高商(現一橋大学)に学んだ。大正四年(一九一五)、大阪船橋のメリヤス業山本發次郎の長女はなと結婚、婿養子となり、のち「山本發次郎」を襲名して財をなした。

 美術品の蒐集は、昭和のはじめころからであるが、実家の岡山時代に厳父の骨董趣味に目を養われたらしい。寂厳がコレクションの柱の一つになったのも、その縁からであろう。しかし、コレクターとして一躍して注目されるのは佐伯祐三の蒐集で、昭和一〇年(一九三五)には、東京銀座で佐伯祐三回顧展(銀座三共ギャラリー)に出品し、同時に佐伯家所蔵の作品をすべて購入し、あっと言わせたのであった。

 昭和一二年(一九三七)には、みずから蒐集した寂厳、慈雲、明月、良寛等の書に対する見解を「書道私論」と題して『中央公論』五月号に発表して話題をまいた。冒頭に書品の高下を論じて、それを三段階に分ける。

 第一 人に向かってかく書
 第二 自己に向かってかく書
 第三 自他を没却したる忘我三昧の書

 そして、「第一は広さを目標としたるもの、第二は深さを目標としたるもの、第三は高さを目標としたるものといえましょう。そして、第一は地上風俗の書、第二、第三は天上超脱の書でありますから、第一と第二の差は私ども凡人には、一見してよく分かりますが、第二と第三との隔たりは何分にも雲烟縹渺としてなかなか見分けがつきません。」と述べる。さらに王羲之以下の中国の書、聖徳太子、空海以下の日本の書を論じ、当代に至って「市河米庵、貫名菘翁などに至っても、以下長三洲、日下部鳴鶴など、ことごとく皆専門家的臭味に堕して、型に拘泥し、法に縛られ、あまりに類型的で、さっぱり面白味がありません。」と一蹴する。

 それに対しては、当時の書道界からも応分の反応があって、松井如流は「結論をいえば、山本氏の書道私論は近頃痛快の文字ではあるが、畢竟同氏が知っている範囲、或は所持している材料に於てのみ正当であるといわねばならぬ。」(松井如流『書論と書話』峯文荘刊、昭和一七年)と述べる。

 これで納まらないのが山本發次郎で、遂には「ここに小生の慈、寂、明、良の四大書僧が出て来る次第にて、しかして今日まで一無名の田舎神官三輪田米山翁を、中国明清あたりのどの名筆よりも優れたる芸術を持つ、世紀以上の大書家として、小生一切を賭して、草ぼうぼうの土の下より掘り起こし、一躍日本最高の晴れの台座へ押し据えんとするゆえんに候。」と川村驥山宛の書簡形式の文に記す。

 こうした熱狂的なパトロンやコレクターがいてこそ、美術史が構築されるのだから、その心意気やよしであろう。

 三輪田米山は、若いころには鐘孅や王羲之をよく学んだようである。しかし、やがて大酔しては奔放に書く脱俗の境地に至る。その生涯の軌跡が、この『無爲』の書には象徴的に表現されているようにおもうのである。


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