歴史の中の「書」30
森田子龍 『龍知龍』  田宮文平

 

 

    龍知龍 昭和四一年(一九六六)
国立京都国際会館蔵  

  

 第二次大戦後、「道」とつくゆえか、守旧の芸術の代表のようにおもわれていた「書道」に突然、世界から光が射しはじめたのは抽象表現主義と書との間に連携が生じたからである。

 その大きな契機となったのは、森田子龍が、昭和二六年(一九五一)に創刊した『墨美』第一号の表紙にフランツ・クラインの作品が掲載され、特集されたからであった。これは折から来日した彫刻家のイサム・ノグチが、画家の長谷川三郎にフランツ・クラインの作品のプリントを渡して、できれば書の雑誌に載せてほしいと依頼したからであった。それで画伯は、かねて『書の美』誌のα(アルファ)部等を通じて縁のあった森田子龍にこれを手渡したのであった。

 α部というのは、既成の書の概念にとらわれない領域を模索していた森田子龍が、師の上田桑鳩の同意を得て『書の美』誌に仮に実験的に設けたジャンルであった。しかし、フランツ・クラインのプリントを得た森田子龍は、従来の歩みとは一線を画して新たな視点から運動をおこす必要を感じて乾坤一擲、『墨美』の創刊に踏み切ったのである。

 毎号のように抽象表現主義の情報を掲載し、短いながら欧文のコメントを付して世界に発信された『BOKUBI』は、一躍して注目される存在になった。

 抽象表現主義の底流には、写実主義(リアリズム)から発して印象主義(インプレッショニズム)、表現主義(エクスプレショニズム)、立体派(キュービズム)に至る西欧絵画の軌跡があった。そこへ第二次大戦後、日本に進駐してきた連合軍将兵が、当時まだ比較的安価であった禅林墨蹟や禅画等を持ち帰り、その精神性や彼らにとっての抽象性を絵画の世界に情報提供し、これがアクション・ペイティングやアンフォルメルの運動の一つの契機ともなったのである。

 森田子龍は、もともとは近代書学を確立した比田井天来の高弟である上田桑鳩に師事した人である。その上田桑鳩は、昭和八年(一九三三)に天来周辺に集まった桑原翠邦、金子亭、大澤雅休ら青年書人を糾合して「書道芸術社」を結成し、「現代に生きているわれらには現代の書がなければならぬ」と宣言した。そして、その後、手島右 、比田井南谷らも加わり、第二次大戦後の「現代書」の発展の礎をつくったのであった。

 森田子龍もこれらの傘下に育ったが、一世代若いだけに一層、尖鋭の書思想をもち、『墨美』創刊の世界からの反響を追うように昭和二七年(一九五二)には、井上有一、江口草玄、関谷義道、中村木子らと京都の龍安寺に集まり、既成の書壇とは絶縁するようにして「墨人会」を結成したのであった。

 こうした新しい芸術運動に注目したのが、サンパウロ・ビエンナーレのキュレターをつとめたペトローザ博士で、来日して日本の美術界の動向を視察して、遂に昭和三二年(一九五七)の第四回ビエンナーレには手島右 、井上有一を須田剋太らとともに招請したのである。これを支えたのが『墨美』の情報であり、森田子龍自身も昭和三四年(一九五九)の第五回ビエンナーレには、『寒山』、『龍知龍』等を出品している。

 森田子龍の「子龍」という号は、わたしは、はじめ三国志演義あたりがヒントかとおもっていたが、実は小学校時代に先生から聞いた新井白石の龍の話から、自分はまだ子供の龍にすぎないとおもってつけたという。

 それで生涯にわたって「龍」、「龍知龍」等の文字が繰り返し、繰り返し執拗に書かれる。それも紙に墨、板に顔料、漆、銀箔等、用具用材も実にさまざまに試みている。この同じ文字を、ときに用具用材を変えて繰り返して制作するというのは森田子龍の書の大きな特質で、ほかにも「虎」、「寒山」、「圓」、「坐爼上」等、極めて多い。

 森田子龍の書思想は、久松真一老師等の京都学派をバックグラウンドにやがて「書は、文字を書くことを場所として、内のいのちの躍動が外におどり出て形を結んだものである。」という理論に到達する。

 この国立京都国際会館にある『龍知龍』は、檜の板に書かれた珍しいもので、簡素の白木の空間に文字が大きく躍動している。


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