歴史の中の「書」31
鈴木翠軒 『燒竹煎茶』  田宮文平

 

 

     燒竹煎茶 昭和十六年 

 鈴木翠軒の代表的な書として多くの人は、昭和三一年(一九五六)の日展に出品し、翌年、日本芸術院賞に選ばれた『禪牀夢美人』や、昭和二八年(一九五三)に制作され、いまも東京築地の治作に飾られている『醉客満船』などを想い出すことであろう。あるいは、平成二一年(二〇〇九)に生誕一二〇年に際し、所蔵先の日本芸術院会館で、はじめて全点公開された『万葉千首』におもいを致す人もあるかもしれない。

 もっと溯って昭和一桁時代に初等教育を受けた人ならば、「ハナトリ」、「どんぐり」等の『小學書方手本』(文部省編のいわゆる国定習字教科書)を鈴木翠軒の書として懐しむ人もいるであろう。

 それら鈴木翠軒の生涯にわたる書を俯瞰して、もっとも歴史的に注目されるのは、今回、ここに採りあげる昭和一六年(一九四一)作の『燒竹煎茶』ではないだろうか。

 鈴木翠軒筆の『小學書方手本』は、それまでの習字的イメージを一新して書法的に香りの高いものとして一世を風靡した。それは、いまも国定習字教科書の歴史上、伝説的に語られるほどである。しかし、翠軒は、この一大事業を終了すると、深刻な神経衰弱症(いまならたぶん躁鬱症の鬱状態)に見舞われるのである。世俗的には引っ張り凧の絶頂期にあったが、他方で極度の緊張から解放されて躁から鬱状態に追いこまれたのであろう。大芸術家には、ときに現われることである。

 加えて、書法的にも悩みがあった。『小學書方手本』は、中国初唐の 遂良、虞世南、歐陽詢の書風や結体を研究し、平かなは良寛の「いろは」を参考にして書いた。この結果として翠軒流が一世を風靡するのであるが、この書法では、条幅等の芸術書が、なかなか、おもうように書けないという大きな壁にぶつかってもいたのである。

 そうした翠軒師の鬱状態を少しでも気分転換させようと、門人の渡邊松軒(小暮青風)は、昭和一六年(一九四一)の秋に明治神宮参拝へと誘ったのであった。その帰途、日頃から筆等を愛用する九段下の玉川堂に寄り、茶を喫するうち俄に興がおこり、楼上にあがって書いたのが、この『燒竹煎茶』であった。これは戦災もまぬがれて、いまも玉川堂に飾られている。

 この書が、鈴木翠軒独特の書法を生み出す契機となるのであるが、翠軒自身、「これが書者の書風の百八十度の転廻のそもそもの最初の作となった。忘れることの出来ない生涯の涙の思い出に、拙なるもここに載せることにした。」(『翠軒作品集』、同刊行会刊、昭和29年)と語っている。

 この『燒竹煎茶』には、のちの『醉客満船』や『禪牀夢美人』のような結体の華やかさや、長く長く尾を引くような用筆の勢いこそ出ていないが、点画の底流においては書者自身が語るように一大転換が計られているのである。しかし、それは突然に表われたというより翠軒の書に内在しながら意識されていなかったものが、この書を機に現出してきたと考えるべきではないだろうか。それには、二つの理由が考えられるとおもう。

 一つは、『小學書方手本』の執筆のために採用された初唐の楷書は、教科書用としては、まことに的確であったが、点画の構造上、人工的とも言ってよいほどの完成度をもっていたために行草書への発展性にむずかしさを内包していた。それが、王羲之を中心とする魏晋の小楷を再発見すると一挙に解決に向かったのである。それを翠軒は、「唐楷は重箱へ詰めたようなもので、悪くいえば、キチッと整然としているだけで、 裾のものだって、羲之あたりのものと比べると、情趣においても全然駄目だ。大体唐楷は情に乏しい。羲之のものは分間布白、自然の妙を具し、沈着でしかも高尚だ。唐楷とは比較にならない。」と、国定教科書のことはすっかり忘れたかのごとく極端から極端に走って述べる。それが、いかにも芸術家らしいとも言える。

 もう一つは、長い間、翠軒の書をいろいろに見てきて、あるとき、ハッと気がつくものがあった。それは、若いときからの書簡を見ていて、そこにのちの翠軒流をおもいおこさせる要素が、すでに存在していることであった。翠軒の書簡は、その書と並んであまりにも有名であるが、無意識のうちに翠軒の書の本性が早くから顕現している。その本性が意識されたのが『燒竹煎茶』であったとも言えるのである。


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