歴史の中の「書」32
正岡子規 『糸 瓜』  田宮文平

 

 

     絶筆三句 三〇・三×四四・二センチ 

 この正岡子規『糸瓜』の書は、絶筆といわれるものである。明治三五年(一九〇二)九月十八日午前に揮毫し、その日の夜に絶命したという。

 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
 痰一斗糸瓜の水も間にあはず
 をととひのへちまの水も取らざりき

 もう、このころは寝返りも打てない状態で、『仰臥漫録』の文言通りに仰むけに寝たまま毛筆で認めていた。それで、先ず紙面の中央に「糸瓜咲て」の句を書き、つづいて左へ移り、「痰一斗糸瓜」を、そして最後に右のあいているところに「をととひの」を斜めに散布するようにかいたのであろう。


 近代文学に偉大な足跡をのこした正岡子規のことだから、この国立国会図書館に収蔵されている絶筆の書は、かねて広く知られていたのであろうが、書壇では、亡き村上三島が「調和体(読める書)」を提唱してから、何かと子規の絶筆の書を語ったので馴染みのものとなった。もちろん、村上三島は、単に漢字かな交じりの書の例としてばかりでなく、晩年に良寛に深く傾斜したほどの人だから、子規の書の実存性に想いを致してのことではなかったかとおもう。


 書は、言うまでもなく〈文字のかたち〉と〈ことばの意味〉を同時に伝える芸術であるから、みずからの心情を真率に托すのに国文(漢字かな交じり文)にしくはない。伝統系の書人は漢詩漢文を書くことが多いが、それも、もし読むとすれば国文として読んでいるのだから、それを音声のまま記せば、漢字かな交じりの表記となるのである。


 ところで、この子規の絶筆には、当時の文人たちの書に対する素養がおのずとあらわれている。毛筆がほとんど唯一の筆記具であったことはもちろんだが、変体かなも自在に熟しているのである。それをその通りに記すと、


 糸瓜咲て痰のつまりし佛可那
 痰一斗糸瓜の水も間尓あ者ず
 を登とひ能へち満能水も取らざりき


ということになり、当時の教養人には極く普通に読めたということである。


 正岡子規の病魔との苦闘は、『病牀六尺』、『墨汁一滴』、『仰臥漫録』等でよく知られるが、苦しみのなかにも不思議とユーモアと明るさがある。寝た切りになってからは、見るものも庭の景色に限られるが、鶏頭や糸瓜や瓢を句に読み、ときに画にも描く。このスケッチが、なかなか堂に入っているのである。それで、つい想い出すのが洋画家の中村不折と親しかったことである。子規も「折れまがり折れまがりたる道の奥に折れずといへる絵師は住みけり」と、不折をユーモアたっぷりに歌にしているほどである。もちろん、これは画家としての心根と、子規庵のある根岸近辺の当時の道にかけているが、そこに現在も中村不折創設の書道博物館(現在は東京台東区立)と、子規庵が近接して存在している。


 さて、わが国の書は古来から唐様と和様とに分かれてきた。中世以降、国文は事実上、漢字かな交じりになったのにかかわらず、近代以降も書は漢字系と、かな系とに二分されてきた。さすがに、それだけでは不自然であると、尾上柴舟は文検制度(文部省習字科検定試験)の科目として調和体を提唱した。尾上柴舟は、歌人としても著名な人であるから、それを漢字かな交じりの書として表現できないのは、おかしいとおもったのであろう。しかし、柴舟は文学では古今和歌集と源氏物語、書では藤原行成を至上のものとする貴族的な美意識の持ち主であったから、伝行成の粘葉本和漢朗詠集の漢字とかなを基調とするものであった。


 その調和体では、生きのよい現代文学は書にかけないと金子鴎亭は近代詩文書を、飯島春敬は新書芸を提唱して漸く現代の書に新しい分野を切り拓いたのである。


 しかし、それにもかかわらず近代書道史は、いまだ、それを書き直してきたとは言えない。正岡子規や樋口一葉、与謝野晶子らの文人をはじめとして多くの近代の教養人が漢字かな交じりの書をかいてきたのにかかわらず、書道史は唐様(漢字系)と和様(かな系)を軸に記述されてきたからである。これは修正されなければならないであろう。


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