歴史の中の「書」33
西川春洞『篆書七言絶句』  田宮文平

 

 

     篆書七言絶句王昌齢「春宮曲」 成田山書道美術館蔵 

 

 社会一般には、残念ながらかならずしもよくは知られていないことながら、現在にまでつづく近代書道史上、最大の人脈をつくったのは日下部鳴鶴と、今回採りあげる西川春洞系である。今では、あまり言われないが、かつては前者を山の手派、後者を下町派などと称したものである。それは、住んでいた東京の地形のこともあったが、鳴鶴は、明治新政府の大書記官等もつとめて、一派にも官公庁職員や教育関係に人材が多かったのに対し、春洞は専ら民間にあって指導したからでもあろう。


 このように一面では対照をなした両者であるが、書学では共に清朝書学によって大きく覚醒したのである。日下部鳴鶴や中林梧竹らが清国に渡り、書法を問うと共に多くの碑版法帖を蒐集したのに対し、西川春洞は渡清こそしなかったが、当時は交易も盛んで清国の書道事情に通ずることに格別の不便はなかった。


 西川春洞も日常の指導や建碑の書風には、鳴鶴と同様、鄭羲下碑や書譜などをベースとしたが、鐘鼎文等には特異の拘りがあり、篆書や隷書にユニークな書を展開した。また、清代の楊沂孫、徐三庚、趙之謙等の書法を好んで学んだのも、同時代の書人のなかで独特の位置を占めることにもなった。明笛や月琴にも凝って書齋は極めて文人的な雰囲気であったようだ。


 現代への西川春洞系の発展を考えるうえで、豊道春海の大正昭和二代にわたる権勢と、厳父の謙慎堂に因んで謙慎書道会を昭和八年(一九三三)に結成した子息西川寧と、その碑学派の思想を大衆時代に敷衍した青山杉雨の存在は、まことに大きいと言わねばならない。


 そもそもその碑学の萌芽は、西川寧が幼少期に厳父の書齋で石印材に文字を刻して篆刻のまねごとをして遊んだことに発するのである。特に成人してからの趙之謙への異常とも言える拘りも、元はと言えば、厳父の書齋の中に存在したと言っても過言ではないであろう。


 この王昌齢詩「春宮曲」の篆書七言絶句の一作のみで西川春洞の書を語るのは、ちょっと躊躇われるが、落款に「明治六年」と記されていることからすれば、清朝書学の移入で象徴的に語られる明治一三年(一八八〇)の楊守敬の来日より以前のこととしても注目されなければならないであろう。春洞の篆書は、徐三庚の書との関係が指摘されるが、それはすでに明治以前に上海に渡った岸田吟香らを介してとも言われる。ともかく、当時、これだけの正統の篆書をかくというのは、時代を抜きん出たことであった。


 この西川春洞を継承したのが、諸井春畦、諸井華畦、安本春湖、武田霞洞、豊道春海、花房雲山、中村春坡の七福人と称せられた人たちだが、この中で現代の書壇へ最大の影響を与えたのが、豊道春海である。ところが、春海は篆書、隷書も書かないことはなかったが、その書の多くは楷書と行草書である。その要因の一つは、幼少にあって師事した際、春海が僧籍にあったことから ″楷書十年″の修業を強られたことであろう。大人たちが行草を書いているのを見て、自分にもと懇願しても決して聞き入れられることがなかったという。


 それが、現在、篆書、隷書系の総本山とも見られる謙慎書道展へと復活したのは、西川春洞から子息寧へと伏流水のように伝わったからである。その源流は、春洞の書斎にあったと言っても過言ではない。


 西川寧は、幼少期の趙之謙へのおもいから出発して、清朝の実証的な書学へと到達するが、それは搨 に搨 を重ねて当初の姿を見失いがちであった王羲之系の法帖の書学ではなく、金文や石刻文字等、より実証性の高いものに源流を求めることであった。これは、当然ながら古代に溯行することになり、篆書や隷書に光を当てることになった。


 加えて、西川寧が新しい時代にふさわしい実証的な書学を打ち立てるのに明治三二年(一八九九)に甲骨文字が発見されたことや、つづいて折りからの探検ブームからスウェン・ヘディンやオーレル・スタイン等によってシルクロードから木簡残紙等が発掘発見されたことが幸運であった。それが、西川春洞の趣味性の篆書、隷書への嗜好から、西川寧による実証的な学問の方法論となって展開するのである。その源流が春洞の謙慎堂に発していたということになる。


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