歴史の中の「書」34
川谷尚亭『臨喪乱帖』  田宮文平

 

 

     臨喪乱帖(部分) 

 

 「亡くなって三年経っても忘れられないようなら一廉の書家だった証明だ」と言ったのは、ことばはちょっと正確でないかもしれないが、書家の桑原翠邦である。たしかに書家に限らず画家でも生前、権勢を誇っても三年経って身内の人たち以外からも囃される人というのは案外、少ないような気がする。


 川谷尚亭は、明治一九年(一八八六)、高知県安芸郡川北村の生まれで、昭和八年(一九三三)、四七歳で亡くなっている。没後、八〇年近く経つのに、いまだに熱狂的な人たちが存在するのは不思議なほどである。夭逝して、かえってロマンを感じさせるのは、どこか、石川啄木と共通するような感じさえする。


 川谷尚亭の門人というと手島右卿、炭山南木、田中塊堂らが著名だが、ご縁の深かった人として桑原翠邦、金子鴎亭、平岡華雪らがいる。もちろん、尚亭同時代の世代としては比田井天来、吉田苞竹、松本芳翠、鈴木翠軒らを逸することもできない。


 これらの系譜のなかでも、川谷尚亭について特に熱狂的なのは、いまに至るも桑原翠邦および、それに連なる北海道の人たちである。翠邦子息の桑原呂翁は、尚亭の代表的著作である『書道史大觀』、『尚亭先生書話集(手島右卿編)』の復刻にもつとめているし、翠邦門下で『墨華』誌を編集する吉野大巨は、同誌巻頭に毎号、尚亭の書を掲載してきた。そして、毎年のように高知の川谷家を訪れ、墓参を欠かさない。


 川谷尚亭の近代書道史上の位置づけは、日下部鳴鶴、中林梧竹、西川春洞らの明治開国世代を継承しての第二世代ともいうべき比田井天来、吉田苞竹、辻本史邑らの大正世代に属する。尚亭は、明治四一年(一九〇八)、上海の東亜同文書院に留学するが、体調を崩して帰国したあと、地元の川北村小学校の教員となった。この間、明治四二年(一九〇九)には、兄川谷横雲のすすめで、日下部鳴鶴門の四天王の一人であった近藤雪竹に師事した。大正七年(一九一八)には意を決して上京し、日下部鳴鶴、丹羽海鶴、比田井天来ら先輩たちの厚誼を受けるとともに、当時、『筆之友』誌の特待生仲間であった吉田苞竹、松本芳翠、鈴木翠軒らと盟友関係を結ぶのである。


 大正一三年(一九二四)には、関東大震災のあと川谷尚亭は、本拠を大阪に移す。そこで発刊したのが、月刊『書之研究』であった。ここでは、近代書学の核心を指導、紹介すると同時に「新進作家に告ぐ」等のエッセイで、全国の青年書人に檄をとばした。「勃々の英気にみつる蕾諸君よ。自由なれ。束縛あるなかれ。その好む処により己の適するものを採り短を補ひ長を伸べ、自己の天賦の全能力を発揮して、各々特色ある優麗の花を開け。ここに諸君の天地がある。余は一様に北朝化し、和様化せんとする傾向のあらずやを恐る。


 見よ東山の桜、西岸の桃はまさに春風に笑って塵人を見下してゐるではないか。」(『書之研究』、大正15年4月号)


 こうした檄文が、全国の青年書人に勇気と希望を与えたのである。そして、師風伝承の手本主義に変わって学書が古典学書によるべきことを広めることにもなった。


 こうした状況のなか、川谷尚亭は、昭和二年(一九二七)、大阪を発って北海道への遊歴の旅をする。このとき熱狂的に迎えたのが、大塚鶴洞、山本玄濤、桑原翠邦、平岡華雪らの書人であった。現在でも北海道系の書人に川谷尚亭の人と書を敬仰する人が多いのは、そこに源流を発しているのである。


 川谷尚亭と同郷に生まれ、少年時代から師事した手島右卿は、「師は、どこまでも清らかな人であった」と回想する。それは、そのまま書作にも当てはまり、どれをとってもまことに清韻である。先に引用したなかに「余は一様に北朝化し、和様化せんとする傾向のあらずやを恐る」とあったが、当時は奇趣奇態に走る六朝書や、一方で書の国粋化があったからであろう。


 川谷尚亭は、書に対する激しさを内に秘めながらも中庸を行くのが基本であった。だから、ここに採りあげた『臨喪乱帖』をはじめ、九侍中帖や蘭亭叙等、王羲之の書もよく臨書して熟している。それも極めて清々しい。篆書や隷書も書かないことはなかったが、生涯を通じて行草体の書が多いのは、それがいかにも性情に適っていたからであろう。


歴史の中の書indx