歴史の中の「書」35
北大路魯山人『柚味噌』  田宮文平

 

 

    刻書看板「柚味噌」 1914 63×181.8  

 

 この『柚味噌』の看板は、いまも京都三条高倉の京都文化博物館から北へ一歩入ったところの老舗に掛かっている。単なる看板というよりは、北大路魯山人の自書自刻による刻書作品と言ったほうがよいのかもしれない。


 わたしが、現役の編集者であった四〇年近くも前に、偶々、料亭の取材をしたことがあった。そのころすでに「魯山人の一つも持っていないようでは、まともな料理人とは言えない」と言われていた。いまでは、それももっと伝説化されているのではないだろうか。とは言え、織部爼鉢が、何百万、何千万円もするようでは入手するのもなかなか容易ではない。
 北大路魯山人の仕事は、陶芸、絵画、書、篆刻、刻書の広汎にわたり、まるで現代のレオナルド・ダ・ヴィンチのような人である。さらに料理も加えてよいのかもしれない。これらすべてが独学であるが、逆に言えば独学だからこそ可能でもあったのであろう。もし、この人が環境に恵まれてエリートコースを歩んだならば、いずれかの分野で才能を発揮したとしても決してオールラウンドの芸術家にはならなかったにちがいない。


 北大路魯山人(本名房次郎)は、明治一六年(一八八三)上賀茂神社の社家北大路清操の次男として生まれた。しかし、父母とは縁薄く、直ぐに養家を転々とした。六歳のときには木版師福田武造の養子になったが、薄倖の運命に変わりはなかった。しかし、この時代に文字をかくことや彫ることを覚えはじめたのであろう。当時、京都では、″一字書″のコンクールが盛んで、これに応募し、上位に入賞することで書に対して自信を抱くことにもなった。このあたり土佐の一字書のコンペで川谷尚亭に発見された手島右 を彷彿とする。


 書で身を立てようとおもった魯山人は、伝手を頼って上京し、日下部鳴鶴や巌谷一六を訪ねるが、これに失望して生涯を独学で過ごした。鳴鶴や一六は、その時代のエリート中のエリートであるから、どこの馬の骨かもわからない者を相手にしなかったのかもしれない。しかし、「魯山人」が誕生するには、かえって幸いであった。


 京都では、『柚味噌』や『淡海老舗』等の刻書看板が大いにうけて一人立ちすることができた。この間、朝鮮から中国にも渡り、古書、古法帖や篆刻を学び、遂には呉昌碩も訪ねている。帰国後は、書と篆刻を糧に江州長浜の紙問屋河路豊吉や金沢の細野燕台、加賀山代のZ野治郎等、豪商や旧家を訪ねながら古美術に対して目を肥やした。また、それと同時に食道楽も高じることにもなった。


 大正八年(一九一九)に同郷の中村竹四郎とはかり、東京京橋に「大雅堂美術店」を開くが、来客に楼上で食を供したのが評判になり、遂には会員制の「美食倶楽部」を組織するに至る。はじめは店の骨董を用いて料理を供したというが、やがて、それでは間に合わなくなり、みずから食器を焼くようになった。それが、抑、星岡茶寮や星岡窯の発端となったのである。


 まさに偉大なるディレッタントの感があるが、こうなると果して魯山人の本業は何なのか、という問いも生まれてくる。それが人にもよるが、どうやら書と篆刻ということになるらしいのである。すべてが独学同然であった中で、唯一、養家の木版師に就いて学んだのが、文字を書くことと、文字を彫ることであったのだから、それを言うのも満更外れているわけでもないであろう。


 その書と篆刻を稀代の天才の仕事と双手を挙げて推賞する人がいるかとおもうと、他方では、かつて『芸術新潮』誌上で小林斗厘が、魯山人の篆刻を完膚なきまでに論破したように全否定する人もいる。まことに不思議なことでもある。


 篆刻に関しては、その後の文字学の急速な進歩を含めて、わたしも小林説に同感であるが、書や刻書に関しては余人の及ばない才質を認めざるを得ない。この『柚味噌』の刻書も北魏の豪毅の楷書の構造のうえに、古仏の年輪を感じさせるような味わい深さが何とも言えない。


 それにしても薄倖の少年時代の裏返しであろうが、傲岸不遜の生涯の言動は、決して側にはいたくはないが、何とも魅力的な人物像ではある。


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