歴史の中の「書」36
森田竹華『秋の歌(白露も)』  田宮文平

 

 

    秋の歌(白露も) 日展・文部大臣賞   
昭和49年(1974)武蔵野大学蔵

 この森田竹華の『秋の歌(白露も)』は、昭和四九年(一九七四)の日展で文部大臣賞を受賞した作品で、その後、教授をつとめていたご縁で武蔵野女子大学(現武蔵野大学)に収蔵されている。


 古今和歌集の秋下に収められた紀貫之の


 白露も時雨もいたくもる山は
  下葉残らず色づきにけり


の和歌一首を書いたものである。現代空間にふさわしい新鮮さを内包しながら、一方、王朝の雅びを巧みに生かした森田竹華晩年の代表作の一つである。


 はじめの二行は墨色も濃く、行を放ちの変化のなかにもしっかりと構築している。そして、「山は(盤)した(多)は(八)」で大胆に変化する。山字は紙面の上部に食み出すかのように、「し」は漢字書では絶対にありえないほど、一行のほとんどを貫通している。それから一呼吸置くようにして最後を潤渇変化の筆で散布して鮮やかに収める。


 森田竹華と言えば、現代書道二十人展(朝日新聞社主催)に最後に出品した昭和五二年(一九七七)作の「騒人にひたと閉して花の寺」や「夏籠や月ひそやかに山の上」が印象深く想い出されるが、この二作には実は変体かなは使用されていない。そこに到達するまでの過程としても、この『秋の歌(白露も)』は、なかなかに意味の深いものがあるのである。


 森田竹華は、明治四一年(一九〇八)に東京市京橋区に生まれた。厳父は、近代書道史にも出てくる尾崎黙蜂である。本名は「千代鹿(ちよか)」と言ったが、通称は「千代子」で通した。「竹華」の号は、姪の小川さゆりさんによれば、「尾崎黙蜂が竹を好んだ事から娘に竹華とつけたと聞く。竹の花はおよそ百年に一度開き、そのあと竹は枯れてしまうというが、開花までの長い年月を黙々と過してゆく感じが、伯母・森田竹華の姿に似ているように思えた。」(『墨美』第301号)。因みに戦後書道史に名高い森田子龍編集の『墨美』は、この最終号を同姓のよしみか、「森田竹華」特集としたのであった。


 森田竹華は、厳父が名のある書人であったのだから、幼少の頃から書に親しんだことであろう。しかし、当時としては珍しく隷書などをよく書いた漢字系の人であったのだから、かなにはまだ、深くは手を染めなかったのではないだろうか。


 それでかどうかは分からないが、厳父尾崎黙蜂が、昭和一〇年(一九三五)に亡くなると岡山高蔭に就くのである。先輩格には、同じくかな書で名をなした熊谷恒子がいた。


 岡山高蔭は、はじめ晋唐の書を極めて上代様にすすんだ人で、明治四四年(一九一一)から刊行された『書苑』(西東書房刊)一〇〇巻では大口周魚、高田竹山、田中親美などと共に編集委員をつとめた。漢字系とは異なって、いまだ古筆集などが容易には手に入らない時代に、毎号コロタイプで紹介される古筆類は、かな系の人の渇を癒すものであった。


 そういうことからすれば、森田竹華は、かなを本格的に学びたいとおもって高蔭師に就いたのかもしれないが、同門の熊谷恒子によれば、師は「かなは平安朝の肉筆が立派にのこっているのに、どうして自分が手本などを書く必要があるのですか。それで書いたものを持っておいでになれば批評くらいは致しましょう」と言った。「漢字は初心者には、碑法帖が分からないところもあるから暫くは手本を書いてあげましょう。」と言う人でもあった。


 かくして、このあたりから森田竹華の古筆による勉強も本格化したのである。そうなると財界立志伝中の森田一郎氏と結婚して余裕があったから古筆の蒐集にもつとめて、いま、それらは東京国立博物館に夫妻によって寄贈されている。


  第二次大戦後は、かな書の情勢も大きく変わり、学書の方法論として古筆の存在は揺ぎないとしても、書展では、大字かなが主流となった。平安朝のまゝのかなでは、現代の作品にならなくなったのである。森田竹華が、かな系の人だけでなく、手島右卿など漢字系の人からもさまざまに吸収しようとしたのもそのためであろう。そして、やがて森田竹華独自の香りの高いかな世界を切り拓くのである。


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