歴史の中の「書」37
吉田苞竹『論書詩(鄭道昭摩崖碑)』  田宮文平

 

 

論書詩(鄭道昭摩崖碑)

 この吉田苞竹の『論書詩(鄭道昭摩崖碑)』は、昭和一二年(一九三七)の第六回東方書道会展に発表された『論書十首』の十幅対の一つである。数えで四八歳の作であるが、五一歳で亡くなっているので晩期のもっとも充実した時期の書と言ってよいであろう。


 この書の碑は、平成元年(一九八九)、生誕百年を記念して郷里山形県鶴岡市に建てられたが、つづいて鄭道昭縁りの中国雲峰山の麓にも碑亭に覆われた立派なものが建てられ、日中書交流の記念碑にもなっている。


 兼通篆隷草 氣勢壓雲峯
 鄭氏摩看字 昂々百代宗


の五言絶句につづいて落款には、「鄭文公季子道昭博學明儁、自稱中岳先生、其摩看正書俊麗巧妙、所謂、篆勢分韵草情 具者也」と記している。


 吉田苞竹は、明治二三年(一八九〇)に山形県鶴岡市に生まれた。数え一三歳で、藩校以来、碩学鴻儒として名高い黒崎研堂に漢学と書を学んだ。山形県師範学校を出て、はじめ地元の朝暘高等小学校、酒田高等女学校等に勤務したが、大正八年(一九一九)には大願を発して上京、黒崎研堂師の推挙で時の大御所の日下部鳴鶴に師事した。数え三〇歳であった。


 日下部鳴鶴は、現代の書の漢字系に最大の人脈をのこした人であるが、昭和戦前期には比田井天来系の鳴鶴新派と、吉田苞竹らの鳴鶴旧派とに二分した。これは、かならずしも新旧というイメージではなく、新派は現代書系の源流として大日本書道院を興し、旧派は伝統系として専ら東方書道会に拠った。


 比田井天来は、日下部鳴鶴世代の近代書学を一層体系化して、学書が古典臨書によるべきことを主張し、筆も羊毫、兼毫、剛毛等、いろいろに試みた。それに対して吉田苞竹らは、鳴学書学の「楷書は鄭道昭、草書は書譜、隷書は張遷碑」等を基本に置き、筆も鳴鶴愛用の神田温恭堂製の長峰快剣を基軸に廻腕法も重視した。清朝以来の書道史への認識は共有しながらも、この微妙な差が、書壇的に東方系と大日本系と異なった道を歩むことになったのである。


 吉田苞竹が、いかに日下部鳴鶴師を敬仰していたかは、盟友の松本芳翠が、昭和四年(一九二九)、書譜の節筆を分析し、真蹟本を証明したあともなお、鳴鶴師遺愛の刻本である薛氏本に拘りつづけたことからも明らかであろう。実は、今回、採りあげた『論書十首』の書風も、書譜の真蹟本ではなく、薛氏本をベースにおいて自己の書風を築きあげていることが見てとれるのである。それは、もう書学というよりは書者の感性の問題でもあろう。


 昭和七年(一九三二)、吉田苞竹は、長谷川流石、服部畊石、川村驥山、高塚竹堂、黒木拝石、柳田泰雲、松本芳翠、佐分移山、篠原泰嶺と共に東方書道会を結成した。顧問に河井懿廬、仁賀保香城、中村不折らを推戴し、会長には財閥の大倉喜七郎が就任した。このとき、西川寧も余程、東方へ行きたかったというのだから、その衝撃度も分ろうというものである。


 東方が掲げたのは、古典学書をベースとした修練主義で、その結果としての大作の奨励であった。審査も極めて厳正で、自分の身内を入選入賞に推そうものなら、「なんて品のないこと」と白い眼で見られたという。第一回展では、小坂奇石が賞に推されたが、一字崩しに疑問符がつき、翌日までに調べ直すということで、結果は賞どころか落選するハメになってしまった。東方が、いかに高踏的であったか、いまに語られるエピソードの一つである。


 このように東方は、書の理想王国を目指したが、昭和一五年(一九四〇)にコーディネイターともいうべき吉田苞竹を喪った痛手は大きく、第二次大戦後の書壇再建にも大きく乗り遅れることにもなった。


 戦後、東方の修練主義を継承したのは、関西に本拠を構えた辻本史邑である。関東が戦後、比田井天来系の現代系や、西川寧の碑学系に席捲されるなか、辻本の提唱する錬成会主義は、日展を中心とする伝統系の漢字書を制圧、今日の関西書壇の礎を築いた。もし、吉田苞竹健在ならば、これを何と見たであろうか。


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