歴史の中の「書」38
志賀直哉『徳不孤』  田宮文平

 

 

徳不孤

 この『徳不孤』は、『和解』や『暗夜行路』で知られる志賀直哉の書である。申すまでもなく論語里仁篇の「子曰、徳不孤、必有鄰」(子曰く、徳は孤ならず、必ず鄰あり)による。


 青春期に一度は、内村鑑三を頼ってキリスト教に入ったり、父子相剋に悩みながらも白樺派の仲間に支えられたことに、この論語のことばへの実感があったのかもしれない。それで、このことばをよく書いているようであるが、中には細身で弱々しいものもある。たぶん、即席に揮毫を依頼されて用具用材が整わなかったためではないだろうか。


 同人雑誌『白樺』によった人たちの中には、武者小路実篤、柳宗悦、有島生馬、岸田劉生、高村光太郎等々、なかなか個性的な書をかく人が多い。白樺派は、文学の流派であるが、日本の近代美術史においてもセザンヌ、ゴーキャン、ロダン等を紹介して一つの役割を果した。同人はみな旧家や教養階級の出身で、文字を書くとなれば、なお、毛筆が主体であったから、書もおのずと素養として身についたにちがいない。


 だから、武者小路実篤や高村光太郎などの書は、古典に対する知識はあったとしても、いわゆる習った文字ではない。その点、この志賀直哉の『徳不孤』は、顔真卿系統の文字をしっかりと習った形跡をとどめている。やはり、あの独自の透明感のある文体を生み出した人だけに、書においても決して、わがままな個性を追うことはなかったのであろう。


 しかし、そこに習気の感じられないのは、さすがである。あえて一口で言えば、この書は王者の風格をもつと言ってもよいであろう。書家の文字とは異なって巧拙を問うことが躊躇われるような存在感があるのである。だから、この書の実際の大きさは、タテが六三センチ、ヨコが三二・五センチの比較的小さなものであるが、黙っていれば、全紙大のスケールにさえ見えるのである。


 由来、書は人なり、というが、この書の清潔な佇まいは、志賀直哉の文学や生き方と深く重なっていると言えるにちがいない。


 現在では、文学の様相もだいぶ違ってきているが、わたしなどの学生時代には、『城の崎にて』などを原稿用紙に一字一字克明に写して、その描写力や文体のリズムを勉強したもので、今では懐かしい想い出でもある。閑話休題。


 作家の網野菊によると、志賀直哉は、昭和はじめの奈良時代に「支那の墨と筆を貰ったので、字を書く気持になった」と言って、『山深嵐気強』と書いてくれたという(『書を語る』2、二玄社編集部編、一九八七)。「大きなお字で書かれているので、もし、掛字にすると、大きな床の間でなければ似合わない。一月十六日という日は私の誕生日なので私は殊に嬉しかった。もちろん、先生は私の誕生日のことなど御存じなかったのだが……」


 それで表具のことを中井宗太郎のところに相談に行くと、「弘法大師の字に似ている」と言われ、「京都の伏原春芳堂へ頼んだらよい」と教わる。春芳堂に持って行くと番頭から、「おしろうとのお字ですか?」と聞かれたらしい。何となく、その書の雰囲気を伝えていておもしろい。


 その後、網野菊が志賀邸に伺った際、中井宗太郎から弘法大師の字に似ていると言われたと話すと、「特に弘法大師の字を習ったことはないが、書斎の壁に弘法大師の拓本をはってあるので、自然影響を受けたのかもしれない」と答えたという。「弘法大師の拓本」というのが具体的に分からないのが歯痒いが、当時、奈良に住んでいたのだから、そうしたものを入手するのに困らなかったはずである。


 その後も網野菊は、扇面や「南無阿弥陀佛」等を書いてもらっている。「支那の墨と筆」が大いなる契機をつくっていたわけだが、それにしても書についての素養がなければ、そうはいかないであろう。


 昭和のはじめころと言えば、志賀直哉は、畢生の大作である『暗夜行路』や、『雨蛙』、『痴情』等を執筆したあと急速に創作意欲を失って、昭和八年まで筆を絶った。それで奈良や山科に移り住んだのだが、その執筆の空白の期間を「書」をかくことで埋めていたとすれば、まことに興味深いことである。


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