歴史の中の「書」39
青山杉雨『萬方鮮』  田宮文平

 

 

 

青山杉雨「萬方鮮」 1977年 日展

 青山杉雨ほど第二次大戦後の書家像を変えた人はいないのではないだろうか。その書作品以前に、その人物の内含するイメージが、当時の書という守旧性から掛け離れてモダンであった。


 戦後のアメリカ文化全盛のなか、特に東京では書に限らず伝統文化は総じて分がわるかった。しかし、書家も青山杉雨のように恰好がよいのなら、書をやってみるかとおもった若者もいたにちがいない。


 もし、青山杉雨が、そうしたファッション的な外見だけの人であったら、決して大成することはなかったであろう。一時の人気はあっても泡沫のように消えていった書人も少なくないのである。その青山杉雨を根底から変えたのは、西川寧の書学である。


 いまだ、東都が焼土と化していた昭和二一年(一九四六)、青山杉雨は築地本願寺講話室を会場に西川寧による「書談会」を企画した。はじめの半年間に及ぶ第一期のテーマは、第一回「包世臣の書学について」、第二回「明末書道に於けるロマンチスム運動」、第三回「西域発掘の晋人墨跡の研究」、第四回「呉譲之・趙之謙・呉昌碩の書画について」、第五回「阮元の南北書派の説について」、第六回「隷書の研究」であった。当時、晋唐の概論的な書学が一般的であった状況のなかで、これらの講義は、清朝の実証的な書学をベースとした革新的なものであった。


 つづいての第二期の六回は書道史で、殷・周・秦から明清に至る最新の資料に基づく講義であった。


 青山杉雨は、昭和一七年(一九四二)に中国から帰朝した西川寧に師事して以来、折にふれて、このような書学を学んできたことであろう。青山杉雨の書作が、旧来の習字的イメージから脱却して行われたことは、ここに書学の原点があるのである。


 かくして青山杉雨の書作は、昭和二〇年代には、西川師をして ″都会の憂鬱″と呼ばしめた戦後の時代情況の空気を象徴とするようなものとなった。これが、がらりと変わりはじめるのは、昭和三三年(一九五八)に第一回日本書道代表団(団長豊道春海)の一員として中国を訪問して以来のことである。国交正常化の十数年も前のことであったが、北京の故宮で戦中に行方不明と伝えられていた石鼓十基を見るなど、かねて西川師から教えられていた書資料の数々を確認することができたのである。昭和三三年(一九五八)の日展に発表した『詩書繼世』の篆書体は、明らかに石鼓研究のイメージをとどめたもので、当時の篆書作の常識を大きく超えるものであった。


 これ以後の青山杉雨は、各書体を熟しながらも基本的には古代に向かって溯行していく。そこには、西川師に学んだ書学の思想的な裏づけがあった。昭和四〇年(一九六五)の日展に出品し、翌年、日本芸術院賞に推された『詩経の一説「北風簡兮」』は、石鼓の書の延長に木簡を混淆したような篆隷の作である。西川寧の書は、比較的書体の境界がはっきりとして分類しやすいが、青山杉雨の書は、意図的に境界を取り払って混ぜ合わせたとおもわれるものが間々存在する。


 古代に向かって溯行する青山杉雨の書のなかでも、昭和四四年(一九六九)の現代書道二十人展に発表した『殷文鳥獣戯畫』は、素材としてもっとも時代を溯るものであろう。甲骨文字以前の図象文字によったもので極めて絵画的な作品であった。これより先にすすめば、それはすでに前衛書(墨象)の世界につながるものとなる。


 しかし、青山杉雨はそれより先にすすむことなく、取って返すように以後は、金文を主体とした書が多くなるのである。そのなかでも特に代表作となったのが、今回、採りあげた昭和五二年(一九七七)の日展に出品した『萬方鮮』である。萬方と縦に書いて、鮮は扁の魚を低めに、旁の羊を高めに布置して三文字が濶渇変化して一体感のある造形となっている。いわゆる金文の書法というよりは、金文崩しの書き方で、ある意味で金文の行書と言ってもよいような作である。


 古代の文字を毛筆の筆触を通して現代の感覚に蘇らせたところが青山杉雨独特の世界である。雅印、遊印の作法にも苦心が払われている。


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