歴史の中の「書」40
比田井天来『龍 跳』  田宮文平

 

 

 

 龍跳 庚申秋日 天來  大正九年(四十九歳) 

 この比田井天来の六曲屏風『龍跳』は、佐久市(市長j田清二氏)の新市発足五周年記念の「現代書道の父 比田井天来」展(佐久市立近代美術館)で初公開されたものである。


 比田井天来は、長野県望月町協和村の生まれであるが、平成一七年(二〇〇五)の市町村合併で佐久市、臼田町、浅科村と一緒になって佐久市望月町となった。新市は、「叡智と情熱が結ぶ二十一世紀の新たな文化発祥都市」を目標として掲げており、郷土の偉人を顕彰する第一号として、今回の比田井天来展が実現したのである。


 望月町には、佐久市立天来記念館があるが、佐久市には、故油井一二氏(美術年鑑社々長)が、多大の美術品を寄贈して建設された佐久市立近代美術館があり、書も多数収蔵する。それもご縁で、今回の比田井天来展となったのである。


 この『龍跳』は、落款の「庚申秋日」から大正九年(一九二〇)の作と判明するが、某美術コレクターが収蔵しながら、今日まで知られることがなかったものである。比田井天来には、六曲一双をはじめとする超大作が多数存在するが、それらは、いずれも多字数の漢詩を書いたものであり、『龍跳』のような超大字大作は他にはない。


 この作が書かれた大正九年(一九二〇)は、その翌年の大正一〇年(一九二一)から刊行される『學書筌蹄』全二〇集の前年に当たり、比田井天来は古典学書の方法論を確立して、もっとも充実した時期を迎えようとしていた。その勢いが、この『龍跳』の書には彷彿としている。


 今回の比田井天来展は、地元での開催とあってNPO法人未来工房もちづき(代表Z川徹氏)が、隠れたる作品の発掘に精力的につとめ、「天来」の号以前の「淳風」時代の書をはじめ、新発見の作も多く出陳され、比田井天来の人と書の全体像を再検証するまたとない機会ともなった。


 比田井天来は、明治三〇年(一八九七)、二六歳のとき、漢学及び書学を修めるために上京した。それまで書は独習していたのであるが、曹洞宗の名刹貞祥寺の住職に『知足軒』の扁額を書いて見せたところ、そのみごとさに驚き、是非、上京して修業するようすすめられたのであった。今回、「淳風」時代のこの書も公開されたのである。


 上京して小石川哲学館、さらに二松学舎(現二松学舎大学)に転学して漢籍、金石学等を学ぶと共に、書は日下部鳴鶴に師事した。


 当時の書(壇)は、明治一三年(一八八〇)の楊守敬の来日よって、漢魏六朝の拓本や法帖が伝えられ、それまでの御家流や唐様を克服して古典によって書を学ぶ方法論が定着しつつあった。師の鳴鶴世代には巌谷一六、中林梧竹、西川春洞らがおり、また、同門の先輩には近藤雪竹、丹羽海鶴、渡辺沙らが存在した。天来は、素封家の出であったから、生活のために書塾など経営する必要がなく、ひたすら古典を蒐集し、学書体系を整備することにつとめた。


 比田井天来が、日下部鳴鶴に就いて、はじめ学んだ用筆法は、楊守敬によって伝えられた廻腕法であった。これは四指を前方に位置させ、親指との間に挟む懸腕法の一種で、鳴鶴は専ら神田温恭製の羊毫長鋒によった。これによって新興の国家の勢いにふさわしい鳴鶴流のスケールの大きな楷書等を築いたのであった。その中でも大久保公神道碑は、特に代表的なものである。


 しかし、比田井天来は、蒐集した多くの古典を松田南溟と研究するうち、用筆も用筆法も決して単一でないことに気づき、山馬などの剛毛筆も用いるようになる。


 比田井天来は、かねてより学書が師風伝承ではなく、古典によるべきことを提唱してきたが、私塾等が基盤の当時にあっては、これがなかなか普及しない。それで業を煮やすように鄭義下碑や蘭亭叙、雁塔聖教序、争座位帖等の古典を半紙大に臨書して、このように学ぶべしと『學書筌蹄』全二〇集を刊行するのである。しかし、一面では学書は、直接古典によるべしという年来の主張とは反するので、あえて ″筌蹄″の文字を冠したのである。


 この比田井天来の提起した問題は、現代の書(壇)にも改めて検証しなければならないこととして残っているとも言えるのである。


歴史の中の書indx