歴史の中の「書」41
中野越南『李太白詩・王士禎詩』  田宮文平

 

 

 李太白詩・王士禎詩 昭和二十四年 各251.9×60.6 

 

  平成二二年(二〇一〇)に成田山書道美術館で開かれた「歿後三〇年 中野越南展」は、その高貴の境地において年間を通じて、もっとも感動的な催しであった。それで、中野越南の人と書について、何かと語られることの多くなったこともうれしいかぎりである。


 わたしが、雑誌『墨』に中野越南論を書いた平成一六年(二〇〇四)ころは、若い人のなかには「中野越南、WHO?」という状態であったのだから、わずか数年で世の中、変われば変わるものである。


 そのころ中野越南の京都師範時代の教え子で、関西書壇の最高幹部の某氏に「中野越南が亡くなって二〇数年が経ち、没後、京都市美術館で開かれた遺作展も知らない人が多くなったので、是非、遺作展を開いてください。先生所蔵のものと、安達嶽南先生のお持ちのものと、金子鴎亭先生が北海道立函館近代美術館に寄贈したものを合わせれば立派に出来ますよ。」と言ったところ、「それはできない。いま、中野越南展を開いたら関西書壇がつぶれてしまうのでね」と応えられたことがある。


 しかし、その後、書壇情勢が大きく変わって成田山書道美術館で開催するに至ったが、関西では、いまだ、むずかしかったのかもしれない。このたびの成田山での催しに際しては、安達嶽南、古谷蒼韻所蔵の作品が大量に同美術館に寄贈され、加えて中野康郎、中野幸子氏所蔵のものも合わせて展示されて、越南の書の全貌に迫ることができた。


 その中でも、わたしにとって特に印象深かったのは、かねて伝説的に伝えられてきた田中親美による中野越南発見の契機となった龍村の古代裂展の越南による解説文の書を、はじめて実見することができたことである。それは、今泉雄作氏の解説文を中野越南が書いたものであるが、さすが名にし負う龍村のことで、美しい料紙にみごとな上代様で書かれて、為に今日まで保存されることになったのである。これも成田山に寄贈されたので今後、何かと公開される機会があると思う。


 中野越南の人と書が、今日まで広く知られることがなかったのは、書壇や公募展に加わることを避けてきたからである。田中親美が、折角、戦前の東方書道会に紹介しても「作品を出すだけなら」と言って審査や運営には一切タッチしなかった。そういうところに否や応もなく伴う俗事を徹底して嫌ったからである。なるほど、それでは関西書壇もつぶれかねないわけである。しかし、それだからこそ、書芸術本来の姿が存在するとも言えるのである。


 この短い紙幅では、中野越南の書を語り切れるものではないが、生涯の書を大きく分けると、昭和戦前は、田中親美製の料紙による上代様の巻子が中心である。戦後は、漢字の研究に視点が移り、当初は多字数の行草書が多いが、晩年は少字数の語句による禅林墨蹟的なものがほとんどである。


 漢字書の根底となったのは、王羲之を主体とするものが中心であるが、一生が臨書というような書壇的な発想は持たず、自己表現に必要な用筆を身につければ、法帖類は、どんどん人にあげたりして手元には置かなかったらしい。門人の証言によっても最後まで残っていたのは十七帖くらいで、それも何時の間にか見えなくなったという。


 しかし、これも王羲之が一生古典臨書をして、あの名蹟を残したということはないのだから、書の本質にズバリと迫まるとすれば、中野越南にとっては当然のことであったにちがいない。


 ここに掲載した『李太白詩・王士禎詩』は、タテ二五一・九×ヨコ六〇・六センチの双幅である。見あげるような長条幅で、普通の場所では飾り切れないから、京都の何かの催しに出陳したものかもしれない。李太白詩と王士 詩を各一幅に分けたのではなく、一幅目の三行目から王士 詩をつづけて書いている。共に好みの七言絶句であったのであろう。


 用筆は、潤渇変化しながら、まことに豪毅の精神を宿している。最晩年の墨蹟調ほどではないが、すでに高貴の境地を確立して自信に満ちている。干支から昭和二四年(一九四九)作と判明するが、どこか、のちの小坂奇石の書を感じさせるのは、果して接点があったのであろうか。


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