歴史の中の「書」42
中島司有『雪(三好達治詩)』  田宮文平

 

 

「雪」三好達治詩(和紙によるコラージュ)
 NHKの徳島・松山局七年の四国生活から、昭和三十四年東京に戻った時の作。     

 書人中島司有の名が、社会的にも一躍高まったのは、昭和四一年(一九六六)昭和天皇の祐筆(正式には宮内庁文書専門員)に任じてからであろう。


 名侍従長として知られた入江相政氏をして、「国賓の晩餐の時などの、陛下のお言葉書は、すべて中島さんの筆になる。それは当然漢字仮名まじりであるが、いつの時も、このすがすがしきものから、陛下のお声が流れ出る。そして、国際親善の実は結ばれる。」と語らしめる。また、親交の深かった歌人の岡野弘彦氏も「中島さんの書では、あの端正で厳しい楷書が一番好きです。」と称える。


 中島司有に祐筆候補の見本の書の提出の下命があったのは、國學院大學教授であったからではないだろうか。実は提出してみたものの辞退するつもりであったという。生粋の江戸っ子として伝法(勇み肌)の遺伝子のあるところを自覚していたからかもしれない。若い時代にNHKアナウンサーをつとめた人だから見掛けは実に礼儀正しいことば使いだが、本質は ″べらんめえ″である。そして、反権威、反権力の人であったとおもう。


 それが、入江侍従長から「この書なら間違いなく読める。」という、いかにも昭和天皇らしいお言葉を聞いて祐筆に任じる気になったのである。


 中島司有が、少年時代に栄田有宏師に就いたのは、そもそもは左利きを矯正するためであった。同じ左利きの會津八一が終生、デフォルメの利いた字を書いたことと比べると、司有の正楷は、みごとな矯正の結果だったとも言えるのかもしれない。


 はじめ中島司有が専攻したのは、わが国の上代様である。これに付随する写経を習ったことも後の正楷につながることになる。昭和二五年(一九五〇)には、二六歳にして毎日展かな部の最高賞に選ばれてもいる。実に早熟であった。


 その後、一〇数年をNHKのアナウンサーや演出係をつとめたあと、母校の國學院大學に転じると、中国の広大な書の世界へと踏み出す。それにつれて写経から出発した楷書にも九成宮醴泉銘等によって、いよいよ本格の磨きがかかるのである。


 その一方で、正楷のイメージからは信じがたいことであるが、現代文の書や、油彩による巨大な造形書、さらには抽象書や、発泡スチロールによる巨大な立体書などにも、どんどん手を広げている。それらのことが今日、かならずしもよくは知られず、評価もされていないのは、現在の書壇が、あまりにも公募書展のヒエラルキー(階層)に支配されているためではないだろうか。その結果として、一般社会になかなか溶け込めずにもいるのである。


 さて、中島司有の現代文の書には、実に多くのバリエーションがある。自作の詩文による油彩の『阿修羅讃歌』や、紫紙金泥の『ペテロ殉教』、また、親交のあった音楽家のさだまさし氏の詩『邪馬臺』を書いた油彩の書等々、超大作も数々ある。


 そうした中にあって、この三好達治詩『雪』による作は、比較的小さいものであるが、昭和三四年(一九五九)、NHKの徳島・松山局勤務から東京へ帰って、いわば再出発したときの作品である。写真の図版では、ちょっと分かりにくいところがあるかもしれないが、和紙をちぎってコラージュしてまとめている。手法自体が、極めて斬新であったうえに、「書」としての品格をみごとにとらえている点でも注目を浴びたのであった。


 和紙のちぎりに筆意が巧みに生かされ、滲みの抒情性さえ胚胎している。また、「太郎を眠らせ太郎の屋根に雪ふりつむ/次郎を眠らせ次郎の屋根に雪ふりつむ」の二行に展開する巧みな布置。そこには、三好達治の透明感のある詩のリズムが、書と一体化している。


 この時代までの現代文の書には、定形感がない。それだけ各自が模索しながら新たな地平を切り拓こうとしたのである。そして、森田安次『風の又三郎』、青木香流『ゆき(草野心平詩)』のような珠玉の作が生まれたのであった。歴史が積み重なるということは寄るべができるということではあるが、一方で現在の公募書展の近代詩文書や調和体等に見られるように類形化の生じる一因ともなる。改めて、原点の大切さが想いおこされる。


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