歴史の中の「書」43
高村光太郎『海にして』  田宮文平

 

 

高村光太郎「海にして……」 1946−47年 高村記念会蔵 

 

 

 高村光太郎は、明治一六年(一八八三)の生まれである。この年代に生まれた旧家の人ならば、みな書の素養があると言っても過言ではない。しかし、光太郎が机上に拓本を開いている写真などを見ると、単なる素養の域を越えていたと言えるであろう。


 この「海にして太古の民の驚きをわれふたたびす大空のもと」の書は、岩手花巻時代に世話になった地元の人に送ったものという。印の無いところを見ると、出先で即席に書いて与えたものかもしれない。いかにも彫刻家であった人らしく刀意の利いたシャープな筆致は、一目で光太郎の書と分るものである。


 高村光太郎は、木彫家の高村光雲の長男に生まれ、東京美術学校彫刻科を卒業するとヨーロッパに渡り、ロダンに傾倒した。帰国後は、彫刻家として活躍する一方で、『道程』、『智恵子抄』、『典型』の詩集で名を知られることになった。昭和二八年(一九五三)には、詩の業績で日本芸術院会員に推されたが、それを辞退したのは、彫刻家を自任していたからかもしれない。


 いろいろの分野で才能を発揮した人であるが、最後に辿りついたのは、書ではなかったであろうか。それで、「書が分かれば、すべてのものが分る」とも言った。それで書にも一家言を持っていて、王羲之を「我は法なりという権威と正中性がある」、顔眞卿を「まったくその書のやうに人生の造形機構に通達した偉人」と評価する一方で、趙子昂は、「天真さに欠け、一点柔媚の色気とエゴイズムのかげとを持っている」と退ける。


 また、現代の書にも、「この頃は書道がひどく流行して来て、世の中に悪筆が横行してゐる。なまじっか習った能筆風な無性格の書や、擬態の書や、逆にわざわざ稚拙をたくらんだ、ずるいとぼけた書などが随分目につく。」となかなか手厳しい。


 しかし、他の文人たちとは異なって、さすがに古典にも通暁していたから、習うということを一方的に否定はしていない。 絶えて久しい知人からなつかしい手紙をもらったところが、以前知ってゐたその人の字とは思へないほど古法帖めいた書体に改まってゐる、うまいけれどもつまらない手紙の字なのに驚くやうな事も時々ある。しかし、これはその人としての過程の時期であって、やがてはその習字臭を超脱した自己の字にまで抜け出る事だらうと考へてみづから慰めるのが常である。やはり書は習ふに越した事はなく、もともと書といふものが人工に起源を発し、伝統の重畳性にその差の大半をかけてゐるものなので、生れたままの自然発生的の書にはどうしても深さが無く、その存在が脆弱で、甚だ味気ないものである。


 書家の習気の漂うようなものは嫌っていても、やはり、彫刻できちんとした方法論を学んだ人だけに習うということの重要性は、たしかに認識していたのである。それだけに、いまどきの文人画人の一応の雰囲気はあるが、わがまま勝手の書き振りは認めていなかったようにおもわれる。


 この短歌『海にして』は、昭和二一年(一九四六)ごろの書というから戦後まもなくのころで、岩手への疎開がつづいていた時代のものである。この短歌を気に入っていたのか、他にも同じ歌を書いたものを見たことがある。いずれもあまり大きなものではなく、掲出の作もタテ四四×ヨコ六六センチ程度のものである。


 高村光太郎の書は、写真で見ると結構、大きく見えるが、実物を見ると、案外、色紙とか本の見返しに書いたものとか、比較的小さなものが多い。落款もただ「光」と一字あるのみで印の押されていないものも少なくない。そうしたことから類推すると、あらかじめ頼まれて書いたものというより、出先で気軽に認めたものが多いのかもしれない。それだけ書が日常、親しく身に備わっていたということで、もしかしたら矢立をいつも携帯していたのではないだろうか。


 それにしても、「海尓之天太古の民能驚きを王連ふ太々比寸大空のもと」のように変体かなが、すらすらと書けるのは、この時代の知識階級の書に対する素養の深さを垣間見るおもいがするのである。


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