歴史の中の「書」44
貫名菘翁『杜甫曲江詩』  田宮文平

 

 

七言古詩・五言律詩 貫名菘翁筆  宮内庁三の丸尚蔵館  

 

 

 貫名菘翁は、市河米庵、巻菱湖と共に幕末の三筆と称された。米庵は、その号の通りに宋の米慳を尊崇し、明清の書画や文房四宝等を手広く蒐集して、当時の書壇の中心的存在であった。その人気は凄まじく、門弟数千人とも言われた。


 一方、巻菱湖も歐陽詢調の上品な楷書を基軸に明治に至っても教科書等の標準的な書風として一世を風靡した。それで、米庵、菱湖ともに書道史上に語られることは多いが、現代書(壇)への影響力はほとんどない。


 これに対して貫名菘翁は、近代に至ってもときの大御所である日下部鳴鶴が、「人品高尚、博学多識」(『鳴鶴先生叢話』)と菘翁を推奨し、原拓、真蹟による古典学書の姿勢を「吾輩は不幸にして先生の生前一回も相逢うの機会がなかったが、先生歿後其の門下の越智仙心と云う醫者から、其の話と云うのを聞いて、心底から先生の名説に服した。」(同上書)というごとくに傾倒した。


 また、現代に至っても手島右 が、「菘翁を三筆につぐもの、として考えられるのは当然だろう。」(手島右 先生書話『学書指針』)と高く評価した。土佐高知の川谷横雲から手島右 、川崎白雪、伊藤神谷等にまでつづく書の系譜は、貫名菘翁に発すると言っても過言ではない。今でも『翻刻左繍叙』などは好んで臨書される。左繍は、春秋左氏伝の注解書で、嘉永年間に刊行されたときに菘翁が、その序文を書いたのである。


 貫名菘翁は、安永七年(一七七八)に阿波徳島に生まれた。名は苞(しげる)、海屋、海叟とも号したが、晩年は、菘翁と号するようになった。はじめ地元で漢籍や書画を学んだが、寛政六年(一七九四)に伯父をたよって高野山を尋ね、空海の真蹟に触れて書に開眼した。


 貫名菘翁の時代にもっとも流行ったのは、御家流と唐様であった。唐様とは、広い意味では中国風を指すが、江戸期に趙孟蕁や文徴明など、元、明、清の書風を学んで流行した一連の書風に対して使われる。


 しかし、多くの人が石摺等の低レベルの集帖によったのに対し、菘翁は原石から拓した原拓や精刻の法帖を重視して蒐集につとめた。王羲之の十七帖だけでも四十数種も所蔵していたという。そのうえでなお、肉筆にまさるものはないとし、空海等が普唐の遺風をもっとも正統に伝えているとして学んだのである。


 こうした古典臨書の考え方や方法論は、当時の書学の水準を遥かに超越するもので、近代に至って確立する学書体系に先駆するものとなった。それ故に日下部鳴鶴等によって再評価されることになるのである。


 今回、掲出した宮内庁三の丸尚蔵館蔵の『杜甫曲江詩』の七言古詩は、全紙大のグリーンの美しい彩紋牋に書かれている。実は、もう一つのピンクの用箋に書かれた『陶淵明歸園田居』の五言古詩の書と、対の幅となっている菘翁晩年の代表的な書の一つである。


 その用筆は、あくまで正統で格調が高く、ある意味で玄人好みである。菘翁にも大字『いろは』屏風や、『克己復礼』屏風の大字など一般に好まれやすい書がないわけではない。しかし、もっとも親しんだと言われる蘭亭叙の臨書に象徴されるように正統なものが圧倒的に多いのである。


 江戸期の唐様の書というと、隠元隆湊、独立性易にはじまって、池大雅、田能村竹田、良寛、亀田鵬斎等々が、人びとの頭に浮かびやすく、従って人気もある。それぞれ個性的であるが、あえて誤解を恐れずに言えば、それぞれにクセ字である。それらは、すでに素晴らしい書として完成したものであって、それを習って、発展性があるというものではないであろう。


 そういう意味では、貫名菘翁は、一般には、かならずしも人気があるとは言えないのではないだろうか。日本人好みの茶席に掛けられるようなタイプの書とは一味も二味も異なっているにちがいない。


 これが、書家の書と一般社会の人の好む書との乖離でもあるが、書家は習う以上は、あくまで発展性のあるものでなければならない。その上で終局的に人間的にも魅力のあるものが出来れば言うことはないのであるが。これは、現代の書(壇)にとって大きな課題なのである。


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