歴史の中の「書」45
富岡鐡齋『梅田雲濱先生頌徳碑詩書』  田宮文平

 

 

梅田雲濱先生頌 碑詩書

紙本墨書 掛幅 一三一・五×五五・〇 明治三十年(一八九七) 六十二歳 

 

 富岡鐡齋の書画に対しては、熱狂的な賛美者が存在するかとおもえば、鳥肌が立つと毛嫌いする人の存在するのも事実である。


 また、敬して遠ざける人もなくはない。その一因は、鐡齋自身が、「わしの画を見るなら先ず賛を読んでくれ。」とか、「南画の根本は学問にあるのぢゃ、そして人格を研かなけりゃ、画いた絵は三文の価値もない。」とか言っていることで、漢学が社会的基盤を喪失してしまった現在では、親しみにくさがあるのかもしれない。


 これを別途の視点からみると、たとえば、美術評論家の河北倫明氏は、「近代日本のほとんどすべてが東西美術様式の浅薄な混淆に支柱のすべてを見うしなっているとき、毅然として偉大な一角を指さしている悠々たる画式である。ここには中国と日本を貫流する東洋美術の充実した流れが、そのままいきいきと溢れ出ている。」(『日本の美術 その伝統と現代』、「鐡齋芸術に関して」、ぺりかん社刊、一九八二年)。そして、雪舟や宗達と同様に「鐡齋の偽作横行の甚だしさは、鐡齋芸術の無類の高さを語る絶好の資料と言ってよい。」とまで述べる。


 鐡齋晩年の書画は、古今独歩の境地を呈するが、若い時代には、それなりに先賢に学んだようである。


 書では、三十歳代には貫名菘翁や董其昌のものを学んだ。儒者を目指した鐡齋にしてみれば、菘翁は憧れの存在であったのかもしれない。この時期の書として遺されたものを見ても、後の鐡齋の書の個性的なイメージは、まったくないと言ってよいほどである。


 それが、三十歳代の半ばに至ると様相は、がらりと一変して鄭板橋や金冬心等の逸格の書画を好むようになる。世に名高い揚州八怪のうちの二人である。塩の専売権によって莫大な資産を得た塩商が、詩書画や出版のパトロンとなって一大文化事業を演出した。そのなかには異端の文人も多く、特に石濤、鄭板橋、金冬心らの八人を後世、揚州八怪と称するようになった。


 金冬心は、隷楷行草とも金石趣味を反映して、ゴシック体のような独特の書風を開拓した。鄭板橋は詩書画ともに長じたが、書は隷書を基軸として行草に奇趣奔放の書を展開し、隷書の八分におよばないと六分半書などと称しもした。


 揚州八怪の文人たちの奇矯とも言える生きざまは、鐡齋の思考に多大の影響を与えて、古稀を迎えるころには、いよいよ、独自の境地を創出する。


 ここに掲出した『梅田雲濱先生頌徳碑詩書』は、明治三十年(一八九七)、六十二歳のときのもので、最晩年の『丈夫心事』などと比べると多少の硬さがあるとはいうものの、すでに鐡齋独自の風格を見せはじめている。


 鐡齋は、若いころ、梅田雲濱のもとで勤王の思想を学んで、人格形成に多大の影響を受けた。のちに神官を志す時期があるのも、それがゆえであろう。梅田雲濱は、安政の大獄に連座して獄中に病死するが、明治三十年(一八九七)に頌 碑の建つのを聞きおよんで、その遺徳に賦して書かれたものである。


  林下忍飢爲逸民 只憂家國不憂貧
  豊碑今日頌遺徳 第一流人是此人


 落款には、「明治卅年十一月 聞建雲濱梅田先生頌徳碑 賦而代尊 鐡齋百錬」とある。


 非常に骨格強固で、スケールの大きな書であるが、書法的には尊敬していたという蘇東坡ら宋代の影響があるようにもおもわれる。


 さて、鐡齋の書の書壇との関わりであるが、昭和二十年代に関西を中心に盛んに流行した。今日隆盛を誇る関西書壇のグランドデザインを敷いたのは辻本史邑である。その史邑は、日下部鳴鶴、近藤雪竹系譜の人で、昭和戦前期には、『昭和新撰碑法帖大観』全三十六冊を刊行するなど、中国正統の書法の普及につとめた。しかし、最晩年に劇的な心境の変化をもたらし、中国書では金冬心、わが国のものでは仙看や鐡齋等、奇趣のあるものを好んで独自の世界へと転換した。この客観主義から主観主義への変貌は多くの人を驚かせたが、これはまた、書法をどのようにとらえるかの極めて今日的な問題意識を提起したことでもあった。この連載の前回の貫名菘翁、今回の富岡鐡齋の書の間には、そのことが深く横たわっているとも言えるのである。


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