歴史の中の「書」46
熊谷守一『南無阿彌陀佛』  田宮文平

 

 

南無阿彌陀佛 1974(昭和49)年 40.9×31.8cm

 

 富岡鐡齋の奔放かつ少々複雑系の書を調べるのと並行するように、熊谷守一の書を見ていたのであるが、こちらは対照的に簡朴かつ澄み切った世界にぐいぐいと引きつけられた。
 すべてが平かなの『ほとけさま』など、何の技巧もないように見えるのは、無技巧の技巧というべきなのかもしれない。それは、熊谷守一の絵と同じように境涯そのものの表現なのであろう。書人にも宮川翠雨のように、その書に憧れて迫まった人も存在するが、それは単に書法では追いかけることのできない世界であろう。


 鐡齋の書は、まったく独自の境地に到達したが、それには若いときの董其昌や貫名菘翁、さらには壮年期の宋代の書など、そこに至る痕跡を辿ることも不可能ではない。しかも、その書画には作者自身によるさまざまの理屈もある。それに対して熊谷守一の書には、そのような一切の前提がないようにさえ見える。つまりは生まれたばかりの赤子のようなものである。


 熊谷守一は、初代岐阜市長をつとめた熊谷孫六郎の三男に生まれた。旧家であろう。それで素養として習字くらいは幼少にして身についたにちがいない。当初、厳父の指示に従い、慶応義塾に入学したのは、やはり、家風に添うものであったのであろう。しかし、まもなく退学し、二十歳のときには東京美術学校西洋画科に入学する。教官は、黒田清輝、藤島武二らであった。その間にも何ヵ月にわたって日本各地へ単身放浪の旅に出ているところをみると、生来、ワクにはまることが嫌いであったにちがいない。とは言え、ともかく東京美術学校を卒業できたのは、今日の学校制度とは、だいぶ違っていたからではないだろうか。卒業制作は『自画像』であった。


 美校を卒業しても岸上謙Z博士の漁場調査隊に加わり、二ヵ年に渡り樺太や北海道を旅したというから尋常ではない。黒田清輝や藤島武二らの指導を受けたということであれば、アカデミズムのエリートとして歩むこともできたはずだが、そうしたことへの関心はなかったようだ。


 何はともあれ油絵から出発した人だが、やがて日本画に手を染める。もちろん、現在のような厚塗りの時代ではない。油絵から出発した人が、やがて日本画や書へ移る例は岸田劉生などに典型的に見られる。わたしなどが接した人でも、新道繁画伯などもそうであった。わたしが、新道画伯の画集のお手伝いをしたころは、専ら全国に黒松のある風景を求めて、黒基調の絵を描かれていた。若いころのスペインの水汲み娘を描いた時代のバタ臭さは想像できないことであった、そして、アトリエには、みずから揮毫した書の条幅が沢山掛けられていた。わたしが、それを問うと、「自分は生涯をかけて油絵に理想の色を求めてきたが、遂にそれが得られなかった。しかし、これを見給え。この墨には、わたしが理想とする色が厳然とあるのだよ。」と言われた。そこには、たぶん、何千年にもわたって培われてきた東洋の美意識が遺伝子となって存在しているにちがいない。


 熊谷守一の絵は、多くの人がイメージするように童画のようにストレートで、一見、何の作為もない。それは、作者の人間性そのものが、シンプルにあらわれているからであろう。その意味では、書でも平かなばかりの『ほとけさま』が、まさに熊谷守一の世界にふさわしいのかともおもう。


 それら、いろいろと考えたうえで、ここでは九十五歳の『南無阿彌陀佛』をご覧に入れることにした。漢字は多画の文字であるから書いていくうちに自然、それなりの技巧が入りやすいが、そうしたことがほとんどない。この書について、作者は「何時だったか、わたしに信心の心があるかって聞かれたことがあります。実際に仏様を拝んだり、地獄極楽の世界を信じたりするのでなしに、こういうのが信心かなと、自分の心に思うことはあります。そういう意味では信心の心があると思います。『南無阿弥陀仏』の字にしても、信心があるのとないのと、書いた人で違います。見れば分ります。」(『蒼蠅』一九七六年)と述べる。


 ここには、鐡齋のような理屈がない。ただありのままの書者の姿があるのみである。そして、これはまた、中国の書にはありえないことなのである。


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