歴史の中の「書」47
尾上柴舟『肇国創業絵巻絵詞』  田宮文平

 

 

絵詞:尾上柴舟

 

肇国創業絵巻 1939年 画(掲載部分):横山大観

 わたしたちにとっての尾上柴舟(おのえさいしゅう)は、あくまで書人として語られるが、文学では歌人柴舟(しばふね)として位置づけられている。明治三十八年(一九〇五)に車前草社を興し、若山牧水、前田夕暮らを門人として育成した。大正三年(一九一四)には、歌誌『水甕』を創刊し、昭和三十二年(一九五七)に亡くなるまで主宰した。


 昭和二年(一九二七)に比田井天来と共に日本芸術院会員に選ばれるのは、書の業績によってであったが、これは、大正十二年(一九二三)に母校東京帝国大学に提出した学位論文の『平安朝時代の歌と草仮名の研究』によるところが大きいのではないだろうか。


 わたしは、尾上柴舟が戦後住した東京白山御殿町の近くに育ったが、あまり書人としてのイメージで噂を聞いたことがない。町書家のように書道教授の看板を掲げることなどなかったからであろう。


 尾上柴舟は、大正時代からの文検制度(文部省習字科検定試験)ならびに、昭和二十三年(一九四八)に開設された日展第五科では、豊道春海と共に常務理事として絶大な権勢を振った。それで、帖、巻子による小字主義が、この時期、専ら盛行したのである。


 尾上柴舟が、『平安朝時代の歌と草仮名の研究』の博士論文をまとめたのは、東京帝国大学国文科の大学院にまですすんだ人として、平安朝の歌と書を文化史的に研究したかったからであろう。当時は、国文学を研究すると言っても今日のように古典文学大系のような活字本があるわけではない。それで原典に接するとなれば、いわゆる古筆が研究対象となる。その点では最高学府の出身で、御歌所寄人であることが、御物や宮家等所蔵の古筆に触れるのに便宜があったのである。


 そもそも尾上柴舟が書に関心を抱くようになったのは、今様の歌を改めて学ぶために大口鯛二に就いたことからである。鯛二周辺の歌人たちが、すらすらと歌を毛筆で認めるのを見て、書も教えを乞うようになったようである。大口鯛二は、西本願寺本三十六人集の発見者として古筆の研究でも名のある人であった。


 かくして、尾上柴舟は古今和歌集の校訂等の国文学の原典研究をすすめるうち、遂に博士論文へと到達するのである。そこには、今日の「古筆学」の研究方法の原形がほとんど尽くされている。これと同レベルの漢字書の研究では、第二次大戦後の西川寧の出現まで待たなければならなかったのだから、尾上柴舟の「古筆学」が、いかに先駆的な業績であるかが判明する。


 古筆研究の業績によって尾上柴舟が、文検制度や、のちの日展第五科に関わるようになると、かな学書の資料としてもっとも推奨した伝藤原行成筆の粘葉本和漢朗詠集が注目されるようになる。尾上柴舟は、文学では古今和歌集や源氏物語、書では藤原行成系のものを至上のものとした。それで、権勢の赴くところ、本人はいざ知らず、絶対のものとして大流行をみるのである。しかし、それが結果的に女子の手紙文程度に見られていたかな書を本格的な古筆研究へと導き、今日のかな書の盛行を招来したのだから、その功績は実に計り知れないものがある。


 尾上柴舟の代表作は、『雛』、『御壽』(昭和19年)、『新古今春秋歌抄』、『古道』(昭和27年)、『うすべに帖』、『光』(昭和30年)等々、いずれも美しい料紙に書かれた小字かなである。こうしたことから頑なな小字主義者のイメージをもたれたが、昭和三十一年(一九五六)に日展に出品し、絶筆ともなった『道』では、自詠の「我みちは人のみちとしことならね我たどること人はたどらず」の大字かなの屏風を出陳して、あっと言わせた。


 尾上柴舟は、当時の書人としては稀れな最高学府を出て、御歌所寄人等をつとめたので、上流階級での交際範囲が実に広いものがあった。それで、昭和十四年(一九三九)製作の『肇国創業絵巻』では、横山大観、中村岳陵、前田青邨等の画に対して、絵詞を担当する。これは、みずから提唱する調和体の先駆的な仕事ともなった。


 また、川合玉堂とは余程、気ごころがあったらしく、奥多摩を訪ねては、何本も絵巻を一緒に書いている。高貴な精神の持ち主にふさわしい仕事であった。


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