歴史の中の「書」48
棟方志功『關 徹』  田宮文平

 

 

棟方志功「關 徹」  1965年頃

 

 ちょっと意外なほどであるが、棟方志功と書人との接点は、第二次大戦中にまで溯る。富山県福光町に疎開した棟方志功は、若き表立雲や大平山濤等に木簡の書を説いて書作に発破をかけた。もっとも書だけにはかぎらなかったようで、わたしが、かつて福光を訪れた際にもハイヤーの老運転手が、「棟方先生のお蔭で子供のころから、みなベニヤ板等に彫って版画を盛んにやったものです。」と語ってくれたことがある。どこに行っても人間棟方は圧倒的なエネルギーを発散させたのであろう。


 この福光時代の縁があって、昭和二十四年(一九四九)六月に日本民芸館で棟方志功板画展が開かれた際、大澤雅休、大澤竹胎、武士桑風、中島邑水らと劇的な対面が行われるのである。すっかり意気投合した大澤雅休、大澤竹胎、武士桑風は、同年八月には、福光町の雜華堂を訪れ、いまや、伝説化している ″裸振舞″の合作を行うのである。


 歌人でもある大澤雅休は、「われら四人素裸に汗しとどとなりわれは書をかき堂主は絵をかく/われもともも物狂ひのごとく筆揮ふ飛沫を画仙の外疊に及ばして」と詠む。また、棟方志功も「まっぱだかで、丸い体から湯気をあげて、汗をながして、次からつぎと書して行くのです。湧いていく様に筆が廻るのです。何人かで摺る墨が、あとから無くなって行くのです。赤くなって青くなって、鬼のようになって書して行くのです。わたくしは今までこんなにカザリッケのない書人を知ったことがありません。」と記す。


 戦前までの教養階級を主体とした知的な書をみごとに破砕して、土俗的とも言える主張を展開したのが、農民文学出身の大澤雅休であった。既成の価値観が喪われた戦後の書の風土の中で、大澤雅休、竹胎兄弟の平原社には、多くの若者たちが魅入られて参集した。


 棟方志功は、帝展や国画会展等に出品していたが、美術家としては、いまだ、不遇の時代がつづいていた。わたしも若いころ片隅のような場所にひっそりと飾られた作を見た記憶がある。


 一人の美術家が世に出るためには、パブロ・ピカソにしろ、ヴァン・ゴッホにしろ、それを仕掛ける人が、かならず存在するものである。棟方志功の場合、それを民芸的に発見したのは柳宗悦や河井寛次郎らであるが、美術家として世に押し出した功労者は、海上雅臣氏である。ベネチア・ビエンナーレ国際版画大賞の受賞に至る道程は、海上氏の存在がなくては考えられないであろう。


 受賞を機に、その独特のキャラクターによって、一躍人気者となった棟方志功は、多くのファンを育んだが、その一方では、美術の価値には関係なく世間的に揉みくちゃにされる。海上氏も「自分も若かったから世間に認められるのがうれしくて自由にしてしまった。」と後悔する。だから、「井上有一については全部、自分が管理するのだ。」とも聞いたことがある。


 さて、棟方志功の書を語るのに少々、前置きが長くなってしまったが、戦前から素朴な木簡などに注目していたとすれば、それは、板画の美意識と共通するものであったにちがいない。


 書にも早くから関心を抱いていたのであろうが、同じく刻して反転するという同次元からか、篆刻には殊のほか強い関心をもっていたようだ。


 西川寧編の新版『書道講座』6、「篆刻」(二玄社刊、一九七三年)の巻頭エッセイに棟方志功は、「印を、好きになりまして三十年近くなります。そうして、よくお願ひして製していただいた数が千も、もっとあります。」と書く。山田正平、石井雙石、中村蘭台(二世)、保多孝三、園田湖城、冨本憲Z、浜田庄司等々、驚くほどである。


 そうした土壌のうえに大澤雅休、竹胎との出会いがある。雅休との共作では、よく棟方刻の印が押されている。


 この『關徹』は、昭和四十七年(一九七二)の作で、平成元年(一九九〇)の「昭和の書一〇〇選」展(朝日新聞社主催)や、平成十年(一九九八)の「墨魂の巨匠―現代の書50年」展(毎日新聞社・(財)毎日書道会主催)にも選ばれているので、ご覧になった方も多いかとおもう。いかにも棟方志功らしいエネルギーの横溢する書である。


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