歴史の中の「書」49
桑田笹舟『いろは歌』  田宮文平

 

 

 

 

いろは歌 ふくやま美術館蔵

 桑田笹舟は、『日月屏風』六曲一双(ふくやま美術館蔵)によって、現代のかなに不滅の金字塔を打ち建てた。「料紙は書家の家」と称し、「自分の家ぐらい自分でつくりなさい。」と言った人らしく、みずから製作した料紙に日月の歌を書いて、琳派様式の華麗な屏風もみずから装妃を施した。


 そんなわけで、それを図版に採りあげればよいのだが、あまりに壮大でこの欄には収まりそうもないので、ここでは晩年の『いろは歌』を掲げながら桑田書学を検証してみることにした。


 桑田笹舟は、安東聖空と共に、いわゆる ″神戸のかな″の源流となった人であるが、理論と実践の両面にわたって指導力を発揮したので、神戸系でも最大の系譜をなすに至った。


 桑田笹舟が、大正の末にかなの研究をはじめたころ神戸には、それを学ぶべきバック・グラウンドは存在しなかった。それで王城千年のかなを伝える京都は至近の距離にあったが、なぜかそこへは行かず、新興の東京を頼ったのである。しかし、そこには『平安朝時代の歌と草仮名の研究』の学位論文で古筆学を打ち建てつつあった尾上柴舟と、平家納経等の復刻で名高い田中親美がいたのである。桑田笹舟は、この先賢に導かれながら、みずからの書学を確立するのである。


 そして、早くも昭和十年(一九三五)には、『仮名書道概説』(一楽書学院刊)を上梓して、かな書道の理論化をはかる。


 その一端をイメージとして紹介すれば、「書は何処までも可視的なもの、表現される紙面が先立たねばならぬ。従って散布と云うものも、この根底に於てこの紙面から出発するものであり、その紙面が如何に構成されるかと云う事に依存する。故に散布は書における論理学である。」


 このように論理的な結果として、桑田笹舟は、かなの原形空間の学習を厳しく提唱した。現在に伝えられる古筆の多くは分断されて原形空間をとどめていない。たとえば、寸松庵色紙は、いま、色紙形となっているが、元は粘葉装の古今和歌集として仕立てられたものである。ならば、書かれた歌の対抗頁には、何らかの空間が存在している。それを含めて、かなの空間を考えるのでなければ、真実のかな空間の美意識に到達することはできないとするのである。


 そのために桑田笹舟は、門人を動員して「粘葉本寸松庵色紙」の復元を研究する。幸いにして『国歌大観』によって歌の配列が分かるので、すでに失われた部分の歌の頁を補充していくと、これが古今和歌集のある部分を書写した粘葉本であることが分かり、原形空間が復元できるのである。


 こうした古筆の研究をするとなれば、料紙製作の実際も欠かすことはできない。桑田笹舟は、上京の折々に田中親美をたずねて少しずつ教えを乞いながら、独自の技術開発をすすめるのである。


 あるときの個展の会場の冒頭にボコボコの紙に金銀を装飾した紙に書いた茶掛が数点並んでいた。聞けば元は、江戸時代の落とし紙であるという。そして、「わたしにかかれば、繊維さえしっかりしていれば、どんな紙でも、このように出世できるのだよ。」とも言われた。


 たしか、喜寿展に際してのことだったとおもうが、俗事に一切門を閉して、ひたすら料紙を製作し、以後も傘寿、米寿の立派な個展を開かれたのであった。それらの多くは現在、出身地のふくやま美術館に墨痕淋漓とした状態で保存されている。画箋紙の寿命の薄弱さが指摘されるなか、昭和平成の書として後世に伝えられるのは、これら和紙に書かれたかな作品にちがいない。


 かなの理論と実践の体系化にひたすらつとめてきた桑田笹舟も最晩年には、何ものにもとらわれない自由の境地に至ったようである。そして、「假名は路傍の花/はなはつちくれ/土は骨/ほねはかな/八十老笹舟」などと書く。ここに掲出した『いろは歌』も同時期のもので、すでに同じく「かな」と言っても平安朝の貴族的な雅とは遠く離れている。みずからつくった料紙も実に素朴な図柄と色調のものである。


 そして、絶筆は、なぜかかなではなく「有難」と書かれた。感謝の意だけでなく、かなの奥深さの感慨を述べているようにもおもわれ不思議なことである。


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