歴史の中の「書」50
勅使河原蒼風『半神半獣』  田宮文平

 

 

 

 

勅使河原蒼風 半神半獣 一九五五

 勅使河原蒼風は、言わずと知れた華道草月流の創始者である。厳父和風の手解きはうけたが、それに満足せず、みずから草月流を打ち建てることになった。いけ花にとどまらず、書、彫刻等に幅広く活躍したが、何事も人まねは大嫌いな性格だったらしく、遂には父の家元も継がないという人であった。


 この『半神半獣』の六曲屏風は、昭和三十年(一九五五)の作で、奇しく上田桑鳩が度重なる制作への干渉に堪えかねて日展を脱退した年である。前衛書(墨象)が、世界の美術思潮の抽象表現主義と連動して、大いに盛りあがったころでもある。


 勅使河原蒼風は、明治三十三年(一九〇〇)に大阪で生まれた。この年代の人であれば、毛筆が日常的に存在した時代で、書家だけが書をかいていたわけではない。そういう意味では、「書がいまだ万人のもの」であった時代で、才能に恵まれた人であれば、『半神半獣』のような書が生まれても不思議はないと長い間、おもっていた。


 ところが、この稿を書くに当たって勅使河原蒼風について改めて調べてみると、意外なことに縁戚に玉木愛石の存在することが分かった。規範的な、いわゆるきれいな字を書いた人である。蒼風は、その人に可愛がられたのか、墨磨りに行っては書くところを見ていたという。その字は、あまり習わなかったようであるが、おのずと文房四宝の知識を蓄えたようで、後年、それがどれほど役に立ったかと想像する。


 『半神半獣』の書は、書いているところを見ていたわけではないが、おそらく屏風に仕立てて一発勝負で書いたものではないだろうか。そんな勢いの感じられるダイナミックな書である。


 この作を見ていて、ついつい想い出したのは、作家のアンドレ・マルロオがフランスの文化大臣であったとき、パリでみずから選定して日本の美術展を開いたときのことである。源頼朝像などもあったから日本美術史を縦断するような催しであったとおもう。そこに勅使河原蒼風の書も選ばれていたが、行ってみると上下が逆に飾られていたという。勅使河原蒼風は、書において文字のメッセージ性を重視する人だが、もし、読めないフランス人に逆の方がよく見えるのなら、そのままでもよいと言ったらしい。そのことだけを今も鮮明に記憶しているのが不思議なくらいであるが、たしかに書作品には、そうした面もあるにちがいない。文字が読めない人にとっては、抽象絵画と同じようなものであろう。


 この『半神半獣』が制作されたころは、日本の現代書が世界からもっとも注目された時期である。折しも、東京国立近代美術館経由で「現代日本の書・墨の芸術欧洲巡回展」が企画された。費用は、すべて外務省が負担したというのだから、今ではウソのような話である。


 これは抑、森田子龍編集の『墨美』誌によって世界に発信された現代日本の書が、大いに注目されて、ヨーロッパ各国の美術館の強い要請によって企画されたものである。


 その人選は、書家以外の美術評論家や書道史家によってすすめられ、当初、オール書壇を目指したが、ここに一悶着が発生した。それは、日本芸術院会員の尾上柴舟、豊道春海の両名の名で、非文字性のものを書とは認められないとの声明が発せられたのである。それで、これを実現するためには、さまざまの調整が行われたとおもうが、それは展覧会名の一部に「墨の芸術」ということばが使われたところにも苦心の一端がうかがわれる。


 このように書壇が文字性の有無を巡って分裂状態に陥っているとき、同じく前衛系の伝統の破壊者として一世を風靡していた勅使河原蒼風が、書における文字のメッセージ性をはっきりと主張していたのが、いまに強烈な印象をのこしている。


 幼少期に玉木愛石に出入りしていた人らしく、書家に対しての知識も多少とも有していて、亜流は問題外だが、鈴木翠軒の書は高く評価している。また、井上有一、西川寧についても肯定的である。徹底して否定しているのは、ワンパターンの手本主義の類型である。


 そうした書に対する素養があってこそ、『半神半獣』のような書が生まれてくる歴史的根拠が判明するのである。


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