歴史の中の「書」51
金子鴎亭『海 雀』  田宮文平

 

 

 

 

海雀(北原白秋)1952年 毎日書道展出品 北海道立函館美術館蔵

 第二次大戦後の現代書で、もっとも大衆に広く浸透したのは、金子鴎亭が提唱した漢字かな交じり文の書としての「近代詩文書」であろう。その近代詩文書を基軸とした金鴎亭創設の創玄展は、いまや一般部が九千点規模を誇り、わが国最大級の書展となった。これによっても「近代詩文書」が、いかに庶民大衆に支持されてきたかが分かる。
 金子鴎亭は、近代書学を確立した比田井天来に学んだ漢字書の本格派である。しかし、漢学、国学の衰退と共に陳腐化した漢詩漢文、万葉古今等の書の素材を現代の書に甦させるために、早くも昭和八年(一九三三)に「新調和体」を主張した。「過去及び現代の書道界は漢詩句をあまりに偶像視した。これでなければ書の素材とならぬかの如く考えた者が多いが、偏見も甚だしいもので大いに排撃しなければならない。今後の日本書道界は、その表現の素材として、我等日常の生活と密接の関係にある口語文・自由詩・短歌・短誦・翻訳詩等をとるも差支えない。」云々と。
 「新調和体」と新の字を冠したのは、文検制度の中で、かな系の尾上柴舟が「調和体」を提唱していたからである。歌人でもある尾上柴舟としては、みずからの歌を巡っても漢字かな交じりの表現は必要であった。それを主として粘葉本和漢朗詠集の漢字とかなを調和して書くことに求めたのである。
 これに対して、金子鴎亭の「新調和体」は、漢字書法を基本ベースとした漢字かな交じりの書であった。短歌ぐらいならともかく、現代詩や翻訳詩を書くとなれば、平安朝の貴族的な優美のかなでは、素材にそぐわないものがあったからである。
 金子鴎亭が、「新調和体」を主張したのは、昭和八年(一九三三)であるが、時代は次第に戦時体制に移り直に大きく花が開くことはなかった。それが、戦後の昭和二十三年(一九四八)に毎日書道展(第一回展は、全日本書道展)が創設されると、戦前からの漢字、かな、篆刻の既成の部門に対して、新たに「新傾向の書」が提唱されるようになった。非文字性の墨象や、現代詩を書く言わば、口語体の書が実験的に行われるようになる。これら「新傾向の書」は昭和二十九年(一九五四)には「近代詩文書」、昭和三十年(一九五五)には「墨象(のち前衛書)」として毎日書道展に新たに開設されることになった。
 このうち「近代詩文書」は当初、金子鴎亭系の「新調和体」と、飯島春敬系の「新書芸」が中心となり、「近代詩文書」という新しい名称のもとに俄に発展することになるのである。
 「近代詩文書」は、現代に生きている素材(文学作品)を読みやすく、親しみやすく書くことを主眼とし、合わせて現代の空間に相応しい書を創造することであった。しかし、歴史的にすでに書法が確立している漢字書やかな書に対して、「近代詩文書」には前例がなかったから困難を極めた。金子鴎亭の昭和二十年代から三十年代にかけての漢字かな交じり書を見ると、昭和二十六年(一九五一)に毎日展に出陳した『落葉松(北原白秋)』にしても、昭和二十七年(一九五二)の毎日展作『海雀(北原白秋)』、昭和三十四年(一九五五)の随鴎現代書展に出陳した『瞰下景(北川冬彦)』にしても、晩期の定形感のある書とは異なって、まさに一作一面貌の実験的な書作が展開されている。
 それは、漢字と平かな、漢字と片カナの混淆を新しい書法として編み出さなければならなかったからである。
 『落葉松(北原白秋)』は、横形式の用紙を四段ずつ左右に設け、計八枚に書いているが、行頭はすべて天辺に接するようにして、しかも墨を継いでの潤筆主体である。それが、行が下るにしたがって墨量が少なくなって、行末はバラバラにして純白の空間を生かしている。書法は実にシンプルかつ素朴である。
 『海雀(北原白秋)』は、写真でどこまで再現されるか分からないが、黄色の罫線の中に書いて、それが、しばしば食み出る。詩の素材は、漢字と片カナであるが、「海雀」が六ヶ所も出てくる。これをどうやって変化し、全体として統一感をもたせるか苦心のあるところであろう。
 この時代の「近代詩文書」は、たとえ未完成であっても、もっとも輝やいていたのではないだろうか。


歴史の中の書indx