歴史の中の「書」52
大澤雅休『黒嶽黒谿』  田宮文平

 

 

 

大澤雅休「黒嶽黒谿」 1953年 日展(陳列拒否作)

 この大澤雅休『黒嶽黒谿』は、昭和二十八年(一九五三)八月に日展依嘱の求めに応じて制作されたが、雅休はその直後の九月の稽古中に狭心症で倒れ急逝した。
 しかし、武士桑風らの門人は、これが日展に招待として出品するべく用意したものであることを知っていたので、十月に搬入に行ったが、依嘱出品として受けつけられたのにかかわらず、「日展の書風に合わない」という理由で陳列を拒否された。
 日展が開催されても一向に陳列されないので、令弟大澤竹胎と大澤イヨ夫人の連名で問い合わせたが要領を得ない。ときの日展第五科書の責任者は、尾上柴舟と豊道春海の常務理事であった。イヨ夫人は、せめて一日だけでもと懇願したが、一向にはっきりしないので、遂に主催者の日本芸術院長兼日本美術展覧会運営委員長の高橋誠一郎宛に伺い書を提出する。当時の日展は、日本芸術院と日展運営会が共催する ″官展″であった。
 これを機にこの件がマスコミの知るところとなり、朝日、毎日、産経、時事の新聞が大々的に採りあげて一気に社会問題化したのである。
 朝日新聞の尾上柴舟の談には、「ゴチソウに招ばれたお客がキチンとした身なりで来ればともかく、ボロを着て出て来られては招んだ方も迷惑するのと同じで、日展全体の統一も考え、穏健中立の伝統からも拒否した。」云々とある。現在の時点では、ちょっと時代感覚が合わないが、当時は一流ホテルではネクタイを着用しない客は断わったというほどで、このようなコメントになったのであろう。
 この ″事件″には、実は伏線があって、昭和二十六年(一九五一)の日展に出品した上田桑鳩『愛』が、愛という文字ではなく「品」のようなかたちに書いてあったことから、日本画家の松林桂月らの日展当局者から「日展にふさわしくない」と痛烈に批判を浴び問題化したことがあった。
 日展も戦後直ぐには時代状況もあって比較的自由な雰囲気で、昭和二十三年(一九四八)から参加した第五科書には、保守から前衛系までが幅広く参加した。しかし、日展は文展、帝展の系譜を引く。わが国アカデミズムのいわば本山であった。洋画などでは戦前に二科会が誕生するなど、伝統と革新の分離はすんでいたが、書壇は、いまだ入りまじり混沌としていたのである。日展としても戦後の混乱が漸く落ちついてくると、アカデミズム本来の姿が強く意識されてきたにちがいない。
 かくして、大澤雅休『黒嶽黒谿』は、戦後の書の殉教的な作品として歴史に確と刻まれることになったのである。
 大澤雅休は、戦前に比田井天来に就いたが、元々は農民文学の出身で、文筆や弁の立つことで兄貴分として一目置かれたが、書人として全国の青年書人に一躍して注目されるようになったのは、戦後の開放的で自由な社会になってからである。
 令弟の大澤竹胎らと組織した平原社の機関誌『書原』では、「不自然、不自由、非民主的、没個性的、因襲的不合理的法則から割出された修練目標、方法技術の完膚なき破砕。このヒューマニズムの高揚に資するあらゆる方法の依って生ずるところが、我々の法則なのである。」(『書原』、昭和23年11月号)と述べる。
 こうしたアジテーションに敏感に反応して平原社には、武士桑風、表立雲、加藤翠柳、中島邑水、岡部蒼風、池田水城、千代倉桜舟、山本聿水らの若き書人が、ぞくぞくと参集してムンムンとする空気を醸した。
 そして、この勢いはまた、棟方志功との出会いへとつながっていく。民芸の柳宗悦らに見い出された棟方志功は、すでに一部の人たちに注目される存在になりつつあったが、いまだ、「おだばゴッホになる」というような人気作家ではなかった。それだけに交流は純粋かつ熱狂的につづけられたのである。棟方の疎開先の富山県福光を訪れては、いまや伝説的に伝えられる ″裸振舞″の共同制作も行われ、大澤雅休が東京杉並に家を構えた際には、家中に棟方志功は画を描きまくった。
 いまから考えると、その後の西川寧や青山杉雨の例から考えても『黒嶽黒谿』が陳列を拒否されたことが不思議な感じがするが、それも一つの歴史の経過と考えるべきなのであろうか。


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