歴史の中の「書」53
白隠『巌頭和尚語』  田宮文平

 

 

 

暫時不在如同死人

永青文庫蔵 130.0×55.0cm

 

 白隠の書が、書(壇)的に注目されるようになったのは第二次大戦後で、特に前衛書(墨象)系統で顕著であった。
 森田子龍編集の『墨美』誌は、昭和二十六年(一九五一)の創刊号にフランツ・クラインを特集して一躍、世界の抽象表現主義の潮流に波紋を投げかけた。これに勢いを得て『墨美』は、デ・クーニング、ポロック、ロスコ、アルトゥング、スーラージュ等の紹介につとめたが、昭和三十三年(一九五八)の第77号、第78号、第79号で、あいついで白隠を特集したあたりから書本来の内容へと大きく舵を切るのである。同じく世界に進出するとしても、自分たちのオリジナリティーを強く意識するようになったからではないだろうか。
 白隠に限らず仙看にしても、良寛や富岡鐵齋の書にしても、これにいち早く注目したのは書の専家ではなかった。白隠における細川護立、山本發次郎、良寛における相馬御風等によって、はじめて世に正当に紹介されたのである。
 書家が、禅林墨蹟に長い間、注目してこなかったのには理由がある。書家にとって至上の古典は、中国および、そこから派生したともいうべきわが国の三筆三蹟の書であった。書法の規範性を重視する中国書道史では、禅林墨蹟はほとんど評価されることがない。わが国では「墨蹟」と言えば、禅の書を示すが、中国ではそれは一般的に筆蹟を広く指し示す語なのである。最近でこそ、中国でも「墨蹟」が注目されつつあるが、そうした刊行物に収録される禅林の書は、ほとんどわが国に所蔵されているものなのである。
 禅林墨蹟が、わが国で珍重されてきたのは、禅宗系統が発展したことと、これと不可分の茶道の床の掛けものとして重視されてきたからであろう。
 しかし、書法の正統性を指向する書(壇)では、あくまで目は漢魏晋唐、平安朝に向き、たとえ精神性は高くとも規範性の薄い禅林墨蹟に注目することはほとんどなかった。一つには宗教上、秘匿されてきたことや、書の専家の目に触れることがあっても野狐禅的なゲテモノも少なくなかったからともおもわれる。現在の高僧の書といわれるものを拝見しても墨蹟的にも、書法的にも俗調のものが少なくない。
 そうした歴史的背景があるにもかかわらず、現代の書(壇)で「墨蹟」が注目されるようになった理由は、どのようなものなのであろうか。
 その一つは、書法の技術面は、中国伝来の正統性を継承しつつも、それを書く書家の精神構造が、中国的なものから離れてきたからではないだろうか。そこには、書に限らず自我に目覚めたわが国の近代が存在する。このことは書家に限らず、哲学者の西田幾太郎も「如何なる芸術もその芸術家自身の人格の発現でないものはなかろう」と述べつつも、書は「線とか点とかより成る字形によって、自由に自己の生命の躍動を表現する。」と論じている。(西田幾太郎「書の美」、傍点田宮)
 こうした近代化を背景に、その最初の結社となったのが、昭和八年(一九三三)に上田桑鳩らによって結成された書道芸術社で、「現代に活きている吾等には、現代の書がなければならぬ。」と宣言する。
 森田子龍は、その上田桑鳩のもとで育った人で、第二次大戦後の開放的な社会状況のなか、昭和二十七年(一九五二)には、さらにその考えを尖鋭化するために井上有一らの同志と共に墨人会を結成する。それは、まさに書における人間性の発見であった。
 そして、森田子龍は、白隠の書等に触発されて、やがて「書は、文字を書くことを場所として、内のいのちの躍動が外におどり出て形を結んだものである。」という書理論へと到達する。
 井上有一もまた、「大ざっぱにいって現代の美術というものは小ざかしくなっているんだな。」「そのあがきに対して白隠は一喝をくらわしているんだよ。」(井上有一「白隠と大燈」)と吠える。
 掲出した白隠『巌頭和尚語』は、永青文庫蔵の晩期の傑作である。全体の緊密なまとめなど考慮に入れず、ヴォリュウム感あふれる線表現がよく燃焼している。「暫時も在らざれば、死人に如同す」ということばにも圧倒される。まさに「いのちの躍動する書」であろう。


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