歴史の中の「書」54
今井凌雪『樹上烏』  田宮文平

 

 

 

行書「樹上烏」
 一九六三年 日展 縦六八・五×横一一九・八cm

 昭和十六年(一九四一)の第十回東方書道会展の第三部(漢字臨書)で、二人の中学生(旧制)が褒状になったというので、ちょっとした話題となった。奈良の郡山中学校に学んでいた今井凌雪と谷村憙齋である。
 難関をもって鳴る東方書道会展で、なぜ、そんなことがおこったかと考えると、二人の英才の努力もさることながら、教師の中谷釜雙の卓越した指導があったからにちがいない。同じ褒状には、その中谷釜雙のほか、広津雲仙や水本愛堂もいたのだから大いに話題になったとして不思議でない。
 中谷釜雙は、学書が古典臨書によるべきことをしっかりと教えたようで、また、自宅を訪ねれば文房四宝を見せたうえで、その重要性を説いたという。当時、中学生の今井凌雪や谷村憙齋が、それをどの程度に身につけたかはともかく、書を勉強していくうえでの基本的な ″考え方″は充分に学ぶことができたのである。
 そのうえで今井凌雪は、天理語学専門学校(現天理大学)からさらに立命館大学へとすすみ、やがて白川静教授と巡り合い、「説文」の講義にも参加する。一方、谷村憙齋は、『長安の春』で名高い國学院大学の石田幹之助教授に憧れて上京して入学する。これらの発端が中谷釜雙にあったとすれば、よき指導者との出会いが、いかに重要かと改めて認識させられるのである。その中谷釜雙は、事業家としても才能のあった人らしく、戦後は奈良県会議員等をつとめて、書壇からは次第に離れてしまうのも不思議なことである。
 今井凌雪は、学徒出陣して航空隊から奇跡的に生還すると、大阪心齋橋の駸々堂に勤めて日本書芸院の機関誌『書鑑』等の編集に携わるようになり、その縁で日本書芸院会頭の辻本史邑に師事するのである。
 中谷釜雙の時代にすでに学書の方法論を身につけていた今井凌雪は、古碑法帖によって専ら学んだようである。これが学書の本筋であることは露ほども疑わなかったが、あるとき、肉筆でないそれらの古碑法帖にふと疑問を抱くようになったらしい。そんなときに今井凌雪の目をとらえたのが、富岡鐵齋の書や画賛であった。これは、もう理屈抜きの感性のしからしむるところであったのであろう。画賛の小さな文字などをルーペで見ながら、かご字にとって研究したらしい。
 ちょうど同じころ師匠の辻本史邑も晩期の心境的な書に転じ、金冬心や仙看、鐵齋の書に参入し、その影響力のしからしむるところ一大ブームともなった。
 今井凌雪は、昭和二十七年(一九五二)の日展に出品した『陸放翁詩「航海」』で、若冠二十九歳にして特選の栄誉に輝く。そこから真に自立することを模索するうちに鐵齋に出会うのである。以来、さまざまの遍歴を経るなかでも鐵齋の書は、終生付きまとうが、その中でも強烈な印象を与えて一つのピークをなしたのが、昭和三十八年(一九六三)の日展に出品した元匳詩による『樹上烏』である。
 先に今井凌雪が、鐵齋の画賛をルーペで見ながら、かご字で集字したと言ったが、さすがにそれを直ちに条幅に倣書するようなことはなかったようだ。おそらく、この作は「樹上烏」を画に見立てて、元匳詩を画賛のように書いたものではないだろうか。いずれにしろ、この時期の鐵齋への惚れ込みようが彷彿とする作例である。
 さしもの鐵齋への傾倒からやがて今井凌雪は少しずつ離れてゆく。その動機づけになったのは、一つは白川静教授に出会って古代文字を研究するようになったことである。あたかも、それと軌を一にするように馬王堆帛書や楚簡、さらには数多の甲骨文、金文等の古代文字の資料が、ぞくぞくと出土する。
 もう一つは、関東の津金寉仙や赤羽雲庭の文人的な書に魅せられたことである。そこには、今井凌雪が育った関西の錬成会主義による特定の書風の流行とは一線を画す人間性に立脚する思索的な書作が存在していたからである。
 今井凌雪は、西川寧のあとをうけて東京教育大学、さらには筑波大学の教授に任じる。このことが関東に足を運ぶ要因ともなり、関西に住しながら関西の書と関東の書の双方の書の風土を内含するようにもなるのである。
 ともあれ、『樹上烏』が現代の書の鐵齋受容のモニュメンタルな作となったことは間違いない。


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